「北条宗宣」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 北条 宗宣
| 時代 = [[鎌倉時代]]後期
| 生誕 = [[正元 (日本)|正元]]元年([[1259年]])
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| 幕府 = [[鎌倉幕府]] [[引付衆]]、[[六波羅探題]]南方、[[連署]]<br/>11代[[執権]]
| 主君 =
| 氏族 = [[北条氏]] [[北条氏 (大仏流)|大仏流]]
| 父母 = 父:[[北条宣時]]、母:[[北条時広]]の娘
| 兄弟 =
| 妻 = 正室:[[北条時茂]]の娘<br />継室:[[宇都宮経綱]]の娘
| 子 = '''[[北条維貞|維貞]]'''
| 特記事項 =
}}
 
'''北条 宗宣'''(ほうじょう むねのぶ)は、[[鎌倉時代]]後期の[[北条氏]]の一門。'''大仏 宗宣'''(おさらぎ むねのぶ)とも称される。[[鎌倉幕府]]第11代[[執権]](在職 :応長元年([[1311年]] - [[1312正和元]])。[[北条宣時]](大仏宣時)の子。[[北条氏 (大仏流)|大仏流]]の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した(1312年))
 
== 生涯 ==
北条宣時(大仏宣時)の子。[[北条氏 (大仏流)|大仏流]]の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した。
[[弘安]]9年([[1286年]])に[[引付衆]]、[[永仁]]5年([[1297年]])から[[六波羅探題]]南方に就任し、[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])まで在京。[[嘉元の乱]]においては、[[北条宗方]]を討つ。[[嘉元]]3年([[1305年]])に[[連署]]となる。
 
[[弘安]]9年([[1286年]])に[[引付衆]]、[[永仁]]5年([[1297年]])から[[六波羅探題]]南方に就任し、[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])まで在京。[[嘉元の乱]]においては[[得宗]]の北条貞時の命令で[[北条宗方]]を討った。ただし[[細川重男]]は嘉元の乱の背景に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては宗宣の大仏流の始祖は第3代執権である[[北条泰時]]の叔父に当たる[[北条時房]]にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが時房没後は[[北条時頼]]・[[北条時宗]]・貞時と3代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉43頁。</ref>。これに対しては[[鈴木宏美]]が反証している<ref>北条氏系譜人名辞典より</ref>。
[[応長]]元年(1311年)、執権に就任したが、[[内管領]]・[[長崎円喜]]に実権を握られ、政治をみることができなかった。翌年[[正和]]元年執権職を[[北条煕時]]に譲り、[[出家]]した。[[正和]]元年([[1312年]])7月16日、54歳で死去。[[新後撰和歌集]]、[[玉葉和歌集]]、[[続後千載和歌集]]などに、23首の歌が収録されている。
 
[[嘉元]]3年([[1305年]])に[[連署]]となる。[[応長]]元年(1311年)9月、執権であった[[北条師時]]の死去により連署から昇格して第11代執権に就任した<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉73頁。</ref>。貞時と対立した宗宣の執権就任は貞時がすでに病身だったためと思われる。しかし幕政は[[内管領]]・[[長崎円喜]]に実権を握られ、政治をみることができなかった。正和元年(1312年)、執権職を[[北条煕時]]に譲り[[出家]]した。正和元年([[1312年]])7月16日に死去。享年54。
[[細川重男]]は[[嘉元の乱]]の背景に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反発的であったという論陣を展開している。これに対しては[[鈴木宏美]]が反証している<ref>北条氏系譜人名辞典より</ref>。
 
[[新後撰和歌集]]、[[玉葉和歌集]]、[[続後千載和歌集]]などに、23首の歌が収録されている。
 
== 経歴 ==
日付=旧暦
* 1282年2月、雅樂允に任官。
* 同年3月、式部少丞に任官。
* 同8月、叙爵。
* 1286年([[弘安]]9)、幕府の引付衆と就る。
* 1288年10月、上野介に転任。
* 1293年5月、越訴頭人。
* 同年7月、小侍奉行。
* 同年10月、執奏の一員に選定。
* 1296年([[永仁]]4)1月、引付頭人と就る。
* 同10年、寄合衆、京下奉行兼任。
* 1297年(永仁5)3月、越訴頭人辞任。
* 同年7月10日、六波羅探題南方と就る。
* 1300年([[正安]]2)、[[評定衆]]も兼務。
* 1301年(正安3)、9月27日、出家した父宣時の後任として、陸奥守に転任。
* 1302年([[乾元 (日本)|乾元]]元)1月17日、六波羅探題退任。
* 1305年([[嘉元]]3)7月22日、評定衆から連署に異動。
* 1311年([[応長]]元)10月3日、執権と就る。
* 1312年([[正和]]元)5月29日、執権退任。6月12日、卒去。
位階は従四位下まで昇叙しているが、その叙位昇進過程は不詳。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 北条氏系譜人名辞典([[新人物往来社]])
* [[永井晋]]『金沢貞顕』〈人物叢書〉[[吉川弘文館]]、2003年。ISBN 4-642-05228-3
 
== 関連項目 ==
* [[北条氏 (大仏流)]]
 
{{鎌倉幕府執権}}
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[[Category:1259年生]]
[[Category:1312年没]]
{{japanese-history-stub}}
 
[[en:Hōjō Munenobu]]
[[nl:Hojo Munenobu]]