「王朗 (曹魏)」の版間の差分

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[[王沈]]の『[[魏書]]』では「才能と学識はずば抜けており、性質も厳格で、礼儀正しく慎ましく、施しを良くし弱者を哀れまない強者を批判した」と評されている。『三国志』の編者である[[陳寿]]は、王朗を一代の俊傑として称え、その学識と文才を賞賛した。
一方で、『[[世説新語]]』徳行篇には、一度助命して連れに加えた男性を見捨てようとして華&#x6b46;にたしなめられ、そのことから世間で華&#x6b46;に劣ると見られた逸話が載せられている<ref>ほぼ同じ内容の逸話が、先に[[華キョウ|華嶠]](華&#x6b46;の孫)の『譜叙』に記されているが、そこでは王朗は登場しない。</ref>。
 
== 小説での王朗 ==
『[[三国志演義]]』では、[[厳白虎]]と共に孫策に敵対するも敗れる凡庸な太守の一人として登場する。その際、部下の虞翻から孫策と和平を結ぶべきと言われると激怒したため、虞翻に時代遅れと言われ去られてしまった。後に曹操の家臣の一人として登場し、[[華キン|華&#x6b46;]]と共に魏の簒奪に加担する。諸葛亮の北伐で敗れた[[夏侯楙]]の代わりに[[曹真]]を推挙、そして曹真の軍師として76歳の高齢を押して出陣し、諸葛亮に論戦を挑むも敗北、簒奪者に加担した過去を厳しく咎められたため、その恥とショックから憤死する。
 
『[[世説新語]]』徳行篇には、一度助命して連れに加えた男性を見捨てようとして華&#x6b46;にたしなめられ、そのことから世間で華&#x6b46;に劣ると見られた逸話が載せられている<ref>ほぼ同じ内容の逸話が、先に[[華キョウ|華嶠]](華&#x6b46;の孫)の『譜叙』に記されているが、そこでは王朗は登場しない。</ref>。
 
==参考文献==