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この[[1949年]]の事故の前には、ホーガンは当時のゴルフ界を支配する選手といっても過言ではなかったにもかかわらず、おせじにも観客たちの心を捉えて離さないような人気プレーヤーとはいえなかった。これは、おそらく彼がコース上で、どこか冷徹で、超然とした人柄に見えたせいである。
 
しかし、[[1950年]]の[[ノーザン・トラスト・オープン|ロサンゼルス・オープン]]大会において、ホーガンが事故のわずか11ヶ月後にトーナメントに復活を果たし、しかもプレーオフで[[サム・スニード]]に敗れはしたものの第2位の成績を収めた。
 
当時の高名なスポーツ記者、グラントランド・ライスは、この大会でホーガンが2位に終わったことを「彼のハートは、もはやそれ以上の順位を狙うのに耐えられるほど強くない」と評した。
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しかしながら、ホーガンは、これら評論家達の声を尻目に、復活からわずか5ヵ月後にメリオン・カントリークラブ18番ホールのプレーオフでロイド・マングラムとジョージ・ファジオを下し、自身2度目となる全米オープン優勝を達成した。また、この後もホーガンは、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー (PGA) 12勝を達成している。
 
[[1953年]]に[[マスターズゴルフトーナメント|マスターズ]]、[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]、[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]でゴルフ史上初のメジャー大会年間3冠を達成。全英オープン初優勝を果たして帰国すると、[[ニューヨーク市|ニューヨーク]]で紙吹雪の舞う凱旋パレードで迎えられた。同年にはトッププロスポーツ選手として[[ヒコック・ベルト]](''Hickok Belt'', 1950年から1976年まで存在した年間最優秀プロスポーツ選手賞)を授与された。
 
引退後は、ゴルフ・クラブ製造会社(その後、キャロウェイ社(Callaway Golf Company)が保有)を創立した。今日でも、彼の名前を冠したゴルフクラブは数多く製造、使用されている。一方、ホーガンが60代後半になるまで、シニアツアーは創設されなかったために、彼はこのツアーには参戦していない。晩年は[[アルツハイマー病]]に悩み、[[1997年]][[7月25日]]に84歳で逝去した。
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== メジャー大会優勝 ==
* [[マスターズゴルフトーナメント|マスターズ・トーナメント]]:2勝(1951年、1953年)
* [[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]:4勝(1948年、1950年、1951年、1953年)
* [[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]:1勝(1953年)
* [[全米プロゴルフ選手権]]:2勝(1946年、1948年)
総計9勝は、[[ゲーリー・プレーヤー]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])と並ぶ歴代4位タイ記録。
 
 
{{男子ゴルフメジャー大会優勝記録}}