「伊達宗翰」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 伊達 村翰
| 時代 = [[江戸時代]]後期
| 生誕 = [[寛政]]8年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1796年]][[7月23日]])
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| 父母 = 父:[[伊達村寿]]、母:田中氏<br/>養父:''[[伊達村芳]]''
| 兄弟 = [[伊達宗紀|宗紀]]、[[松根候知]]、包、[[蒔田定邦]]、'''宗翰'''、[[伊達村明|村明]]、<br/>[[伊達躊俊|躊俊]]、勝、[[伊達躊棋|躊棋]]、雍([[志賀為重]]室)、<br/>純([[望月重咸]]室)、辰([[神尾氏秘]]室)、<br/>静([[桜田躊茂]]室)、央
| 妻 = 正室:[[伊達村芳]]の長女・'''於敬'''
| 子 = 福丸、養子:'''''[[伊達宗孝|宗孝]]'''''
| 特記事項 =
}}
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== 生涯 ==
寛政8年(1796年)6月19日、[[宇和島藩]]の第6代藩主・[[伊達村寿]]の四男として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]13年([[1816年]])5月22日、吉田藩主・[[伊達村芳]]の[[婿養子]]に迎えられた。直後の11月6日に村芳が[[隠居]]したため[[家督]]を継いで第7代藩主となり、12月に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。
 
藩財政再建を目指して[[文政]]5年([[1822年]])に自ら倹約令を出し、下級武士を職人見習いにさせるなどしている。しかし[[天保]]3年([[1832年]])の旱魃、[[天保の大飢饉]]などで財政はさらに苦しくなり、領民の救済などにめざるを得なくなった。また、文武を奨励している。天保14年([[1843年]])6月24日に家督を[[養子]]の[[伊達宗孝|宗孝]]に譲って隠居する。弘化2年(1845年)7月8日、吉田で死去。享年50。
 
{{伊予吉田藩主|7代|1816年 - 1845年}}
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{{DEFAULTSORT:たて むねもと}}
[[Category:宇和島伊達氏|むねもと]]
[[Category:伊予吉田藩主|*07]]
[[Category:紀伊守]]