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== 経歴 ==
1930年10月10日、[[ロンドン]]東部の[[ハックニー]]で、[[ユダヤ]]系[[ポルトガル人]]の[[プロレタリアート|労働者階級]]の両親のもとに生まれる。父は仕立て職人であった。若き日に愛読した作家として、[[ドストエフスキー]]、[[ジェイムズ・ジョイス]]、[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|ロレンス]]、[[ヘミングウェイ]]、[[ヴァージニア・ウルフ]]、[[フランツ・カフカ]]、[[ヘンリー・ミラー]]、[[サミュエル・ベケット]]、[[ランボー]]、[[イェイツ]]などが挙げられている。詩作にふける他方、映画好きの[[シネフィル]]少年でもあり、同時代の映画を浴びるように鑑賞。とりわけ[[ルイス・ブニュエル]]などの[[シュールレアリスム]]映画に強い衝撃を受ける。[[1948年]]、当時としては珍しい良心的な理由から[[徴兵]]を忌避して罰金刑を科される。地元の[[グラマースクール]]のジョーゼフ・ブリアリーという教師の影響で演劇に興味を持ち、卒業後は演劇学校に進学。[[1951年]]にはプロの舞台俳優になったものの、無名俳優としてくすぶることになる。俳優としての生活以外にも黙々と詩作や自伝的な小説の執筆に励んでいたおり、ブリストル大学の演劇科に通っていた幼なじみからの依頼で[[1957年]]に処女戯曲『部屋』を書くことになった。この作品がブリストル大学で上演されて好評を得た。これをきっかけにして、ピンターは劇作家としての道を歩み出す決意を固める。当初はその斬新な劇作手法が受け容れられず評論家たちからバッシングされたが、[[1960年]]に上演された『管理人』がようやく評価され、劇作家としての地位を確立。それ以後、演劇の世界のみならずテレビ、ラジオ、映画、エッセイなど幅広い分野に活動を広げていくことになった。[[2007年]]フランス政府より[[レジオンドヌール勲章]]を受勲。
 
== 作風・政治への関与 ==
12,046

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