「カムチャツカ地方」の版間の差分
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== 地理 ==
[[アジア]]で有数の広さのの[[半島]]、[[カムチャツカ半島]]の全域を占め、北に[[マガダン州]]、[[チュコト自治管区]]と隣接する。東は[[ベーリング海]]、西は[[オホーツク海]]である。火山帯が走り、約300の[[火山]]がある。うち、29が[[活火山]]。[[ユーラシア大陸]]でもっとも高い火山である[[クリュチェフスカヤ山]](4,750m)の他、
[[カムチャツカの火山群]]は[[1996年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産|世界自然遺産]]に登録された。
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ロシアは[[17世紀]]にカムチャツカ半島の領有を宣言した。17世紀半ばにイヴァン・カムチャツキー、[[シモン・デジネフ]]、コサックのイヴァン・ルベツらが探検した。
[[1697年]]に[[ウラジーミル・アトラソフ]]が65人の[[コサック]]と60人の[[ユカギール人]]を率いて半島を調査し、
[[1740年]]に[[デンマーク人]][[ヴィトゥス・ベーリング]]によってペトロパヴロフスク・カムチャツキーが建設された後、カムチャツカは流刑地となり、次第に開かれていった。ロシア帝国政府はカムチャツカ半島への入植を奨励した。[[1812年]]には先住民族は約3,200人を切ったが、ロシア人は2,500人に上った。[[1854年]]、[[クリミア戦争]]でロシアと戦っていた[[フランス]]と[[イギリス]]がペトロパヴロフスク・カムチャツキーを攻撃([[ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦]])。988人の成人男子はたった68丁の銃で、206丁の銃を持った2,540人の英仏軍の侵入を退けた。英仏軍の退却の後、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーは軍事的責務を解かれ、軍港の機能は[[ウスチ・アムール]](Ust-Amur)に移された。翌年に再び英仏軍がやってきて港を攻撃したときには、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーは無人となっていた。
[[1867年]]に[[アラスカ]]が[[アメリカ合衆国]]に売却されたため、アメリカへ渡る商人や探検家の中継地としてのペトロパヴロフスク・カムチャツキーの意義もなくなった。[[1860年]]に[[沿海州]]が設置され、カムチャツカ半島はその管理下に置かれた。[[19世紀]]末のカムチャッカ半島のロシア人は2,500人ほどで、先住民は5,000人にまで増えた。[[1917年]]の[[ロシア革命]]と[[大日本帝国]]の[[シベリア出兵]]を経て、[[1920年]][[3月7日]]に[[極東共和国]]が建国されたが、カムチャツカ半島は同年12月30日に[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]へ譲渡され、[[1922年]]にはロシアなどで形成された[[ソビエト社会主義共和国連邦]](ソビエト連邦)の一部となり、カムチャツカ半島全域は[[ハバロフスク地方]]に編入された。[[1930年]][[12月10日]]には半島北部に[[コリャーク管区|コリャーク自治管区]]が、[[1932年]][[10月20日]]には半島南部にカムチャツカ州が設置された。ペトロバヴロフスク・カムチャツキーなどのベーリング海沿岸には日本の[[北洋漁業]]基地が設置され、日本企業による缶詰工場などが建設されたが、漁法の変化により徐々に撤退した。
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