「逍遙学派」の版間の差分

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*[[テオプラストス]](紀元前322年 - 紀元前288年)
*[[ランプサコスのストラトン]](紀元前288年 - 紀元前269年頃)
*[[トロアスのリュコン]] [[:en:Lyco of Troas|Lyco of Troas]](紀元前269年頃 - 紀元前225年)
*[[ケオスのアリストン]] [[:en:Aristo of Ceos|Aristo of Ceos]](紀元前225年 - 紀元前190年頃)
*[[クリトラオス]] [[:en:Critolaus|Critolaus]](紀元前190年頃 - 紀元前155年)
*[[ティルュロスのディオドロス]] [[:en:Diodorus of Tyre|Diodorus of Tyre]](紀元前140年頃)
*Erymneus(紀元前110年頃)
 
ただし、このリストにはいくぶん不確実である。たとえば、ケオスのアリストンが学頭であったかは定かでない。リュコンの親密な教え子で、その当時の最も重要な逍遙学派の哲学者であったことからそう推測されている。また、クリトラオスがアリストンの直後の後継者だったか、間に誰かいたのかもわかっていない。Erymneusは[[アテナイオス]]による言及で知られるのみである<ref>Athenaeus, v, 211e</ref>。他の重要な逍遙学派の哲学者には、以下の人々がいる。
 
*[[ロドスのエウデモス]]([[:en:Eudemus of Rhodes|Eudemus of Rhodes]])
*[[アリストクセノス]]([[:en:Aristoxenus|Aristoxenus]])
*[[ディカイアルコス]]([[:en:Dicaearchus|Dicaearchus]])
*[[ソロイのクレアルコス]]([[:en:Clearchus of Soli|Clearchus of Soli]])
 
[[紀元前86年]]、[[ローマ]]の将軍[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]によってアテナイが奪取された時、アテナイにあった哲学の全学派が崩壊した。アテナイの逍遙学派も終焉を迎えたと思われるが、後世の[[ネオプラトニズム]]の著作家、ヘルメイアスの子アンモニオス([[:en:Ammonius Hermiae|Ammonius Hermiae]])は、[[紀元前50年]]に生きた[[ロドスのアンドロニコス]]([[:en:Andronicus of Rhodes|Andronicus of Rhodes]])を11代目逍遙学派学頭として記述している<ref>Ammonius, ''In de Int.'' 5.24</ref>。しかし、アンモニオスは別の本で、アンドロニコスの弟子[[サイダ|シドン]]のボエソス([[:en:Boethus of Sidon|Boethus of Sidon]])を11代目学頭と書いている<ref>Ammonius, ''In An. Pr.'' 31.11</ref>。いずれにしても、アンドロニコスが新しい逍遙学派を興し、そこでボエソスを教えたようである。
 
ローマ時代には、逍遙学派の哲学者は僅かしかおらず、その中で重要な人物というと、アリストテレスの著作を注釈した[[アプロディアスのアレクサンドロス]]([[:en:Alexander of Aphrodisias|Alexander of Aphrodisias]]。[[200年]]頃)である。[[3世紀]]のネオプラトニズム(および[[キリスト教]])の台頭とともに、重要な哲学としての逍遙学派は終わりを迎えたが、ネオプラトニズムは自分たちの学説にアリストテレスの哲学を取り込み、アリストテレスの著作に関する多くの注釈本を生み出した。[[5世紀]]のオリュンピオドロス([[:en:Olympiodorus the Elder|Olympiodorus the Elder]])は時々逍遙学派と言われることがある。
 
==影響==