「徳川家慶」の版間の差分

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== 人物・逸話 ==
* 家慶は趣味に生きた将軍で、政治を省みなかった。そのため、評判が悪く、家臣の意見を聞いても「そうせい」というのみであったから、「そうせい様」と呼ばれて暗愚と見られている。ただし、父が存命中には実権が無かったためにそう答えるしかなく、父の死後は[[庄内藩]]などに対する[[三方領知替え]]の中止を決断するなど、ある程度の指導力を発揮している(家臣の1人が腰に差した大小の刀が重いと嘆くのを見て武芸を奨励し、4ヶ月の間に8回も武術上覧会を開催している)。
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年7月}}
* 『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』によれば、家慶は歴代将軍のなかでも推定身長は154.4[[センチメートル]]と小柄で独特の体つきであった。頭が大変大きく、六頭身で顎が長かった。ゆえに、現存する肖像画は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものと推定されている。
* 毛髪等の調査の結果、[[血液型]]は[[ABO式血液型|血液B型]]はB型であった。
* {{要出典範囲|date=2011年7月|父・家斉とは不仲であったと言われる。家斉が[[日蓮宗]]を信仰していたのに対し家慶は[[浄土宗]]を信仰していたこと、家斉が[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となってからも権力を握り続けたこと、家斉の寵臣たちが家慶の四男・家定を毒殺しようとしているとの噂が流れていたことなどからも、2人の関係性が窺える。}}
* 側室の[[妙音院 (徳川家慶側室)|お琴の方]]は、[[水野忠央]]が幕政に参加するための糸口として大奥に挙げ、家慶は当時50代に達していたものの、寵愛した。しかし生まれた二男二女は夭折した。家慶の死後、お琴の方は落飾し、桜田門屋敷で過ごしていたが、しばらくして改修工事が行われた際に町男の大工と密通し、後に死去した(兄・忠央に殺されたという説がある)。
*{{要出典範囲|date=2011年7月|四男・ 家定を将軍にしたくなかったのは、病弱で障害者だったからであり、正室の甥にあたる慶喜を将軍にしたかったという。}}
*家定の障害を直そうと、今でいう[[リハビリ]]をやらせていたが、思わしい効果は得られなかった<ref>参考『徳川将軍家十五代のカルテ』篠田達明ISBN 978-4-10-610119-9</ref>。
*{{要出典範囲|date=2011年7月| 家斉の死後、家斉派によって家慶の嫡子・家定排斥の動きがあった。このため、家慶は水野忠邦と共に家斉派を粛清したのである}}
*『[[続徳川実紀]]』では「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評される。{{信頼性要検証|date=2011年7月}}
*{{要出典範囲|date=2011年7月| 焼き魚の添え物になる生姜が大好物で、[[天保の改革]]の際に生姜が倹約のため生姜が食膳に上らなくなったことについて激怒したという。}}
* [[松平慶永]](春嶽)は著書である『[[逸事史補]]』で家慶を「凡庸の人」と評している。確かに家慶は自ら幕政を行なう事は乏しかったが、人材を見る眼と登用する時期を見極める時勢の判断は確かなものがあった。父の家斉の50年にわたる[[大御所時代]]で幕政が腐敗・弛緩したが家斉が死去するとその腹心である3悪人らを一掃して水野の天保の改革を実行させ、水野の改革が2年で失敗するとその後任に当時24歳の阿部正弘を大抜擢しているなど、電光石火の人事を断行した機を知る将軍であり、決して凡庸ではない<ref>『評伝 堀田正睦』45頁。</ref>。
 
== 系譜 ==
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*母:[[香琳院]]([[押田敏勝]]娘)
 
*正室:[[喬子女王|楽宮喬子女王]](浄観院)([[有栖川宮織仁親王]]王女、1795- 1840年)1840)
**長男:竹千代(1813- 1814年)1814)
**次女:儔姫(1815年)(1815)
**三女:最玄院(1816年)(1816)
*側室:お久([[清涼院 (徳川家慶側室)|清涼院]])([[押田勝長]]娘、? - 1847年)1847)
**長女:達姫(1814- 1818年)1818)
**次男:嘉千代(1819- 1820年)1820)
**五男:[[徳川慶昌|慶昌]](1825- 1838年)1838) - [[一橋徳川家|一橋家]]第6代当主
*側室:お加久([[妙華院]])([[太田資寧]]娘、? - 1826年)1826)
**三男:円常院(1822年)(1822)
**五女:咸姫(1826年)(1826)
*側室:お美津([[本寿院]])([[跡部正賢]]娘)
**四男:[[徳川家定|家定]](1824- 1858年)1858) - 13代将軍
**六男:春之丞(1826- 1827年)1827)
**七男:悦五郎(1828- 1829年)1829)
*側室:[[お波奈の方|お波奈]]([[菅谷政徳]]娘)
**四女:米姫(1824- 1829年)1829)
**六女:[[暉姫]](1826- 1840年)1840) - [[徳川慶頼]]室
*側室:お筆([[殊妙院]])([[稲生正方]]娘、? - 1844年)1844)
**八男:直丸(1829- 1830年)1830)
**九男:銀之丞(1832- 1833年)1833)
**八女:千恵姫(1835- 1836年)1836)
**十男:亀五郎(1838- 1839年)1839)
**十一女:若姫(1842- 1843年)1843)
*側室:お金([[見光院]])(竹本氏娘、? - 1843年)1843)
**七女:里姫(1833- 1834年)1834)
**九女:吉姫(1836- 1837年)1837)
**十女:万釵姫(1839- 1840年)1840)
**十一男:照耀院(1843年)(1843)
*側室:お琴([[妙音院 (徳川家慶側室)|妙音院]])([[水野忠啓]]娘、[[杉重明]]養女)
**十二女:鐐姫(1844- 1845年)1845)
**十二男:田鶴若(1845- 1846年)1846)
**十三女:鋪姫(1848年)(1848)
**十四男:長吉郎(1852- 1853年)1853)
*側室:お津由([[秋月院 (徳川家慶側室)|秋月院]])
**十三男:斉信院(1849年)(1849)
 
*養女:精姫(精宮韶子女王)(1825年 )(((1825- 1913年)1913) - [[有栖川宮韶仁親王]]王女、[[有馬頼咸]]室
*養女:線姫([[幟子女王|線宮幟子女王]])(1835年 )((1835- 1856年)1856) - [[有栖川宮幟仁親王]]王女、[[徳川慶篤]]室
 
== 偏諱を与えた人物 ==
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* [[浅野慶熾]]
* [[松平春嶽|松平慶永]](春嶽)
* [[毛利敬親|毛利慶親]](後の敬親)※) - [[禁門の変]]により偏諱を剥奪
* [[松平慶憲]]
* [[細川慶前]]
* [[細川韶邦|細川慶順]](後の韶邦)
 
== 徳川家慶が登場する作品 ==
;映画
*『[[眠狂四郎 円月殺法]]』(1969年、大映、演:[[川津祐介]])
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*『[[江戸を斬る (西郷輝彦)|江戸を斬る]](第2部)』(1975~1976年、TBS、演:[[入川保則]])
*『[[源九郎旅日記 葵の暴れん坊]]』(1982年、テレビ朝日、東映、演:[[田村高廣]])
*『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』(1990年、NHK[[NHK大河ドラマ]]、演:[[加藤治]])
*『[[江戸を斬る (里見浩太朗)|江戸を斬る]](第8部)』(1994年、TBS、演:[[竹脇無我]])
*『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』(1998年、NHK大河ドラマ、演:[[鈴木瑞穂]])
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{{Reflist}}
 
== 堀田正睦が登場する著書 ==
{{徳川氏歴代当主|||第12代}}
* 評伝 堀田正睦([[土居良三]]、[[国書刊行会]])
{{江戸幕府将軍}}
 
{{征夷大将軍|1837年-1853年}}
{{江戸幕府将軍}}
{{徳川氏歴代当主|||第12代徳川宗家}}
{{DEFAULTSORT:とくかわ いえよし}}
[[Category:徳川氏|いえよし]]
[[Category:徳川家斉の子女|いえよし]]
[[Category:江戸幕府の征夷大将軍|いえよし]]
[[Category:幕末幕府の人物]]
[[Category:徳川家斉江戸幕府子女征夷大将軍|いえよし]]
[[Category:徳川氏|いえよし]]
[[Category:1793年生]]
[[Category:1853年没]]
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[[pt:Tokugawa Ieyoshi]]
[[sk:Iejoši Tokugawa]]
[[th:โทะกุงะวะ อิเอะโยะชิ]]
[[uk:Токуґава Ієйосі]]
[[vi:Tokugawa Ieyoshi]]
[[zh:德川家慶]]