'''花森 安治'''(はなもり やすじ、[[1911年]][[10月25日]] - [[1978年]][[1月14日]])は日本の[[編集者]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[ジャーナリスト]]である。生活雑誌『[[暮しの手帖]]』をの創刊者としたて、その名を知られる。
==経歴 生涯 ==
[[兵庫県]][[神戸市]]出身に生まれる。[[神戸市立雲中小学校]]の同級に[[田宮虎彦]]がいた。旧制[[兵庫県立長田高等学校|兵庫県立第三神戸中学校]]から[[松江高等学校 (旧制)|旧制松江高等学校]]に進む。[[旧制高等学校|旧制高校]]時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが[[編集者]]としての出発点になったと語る。
[[東京大学|東京帝国大学]]文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集に携わったる。当時の編集部員に[[扇谷正造]]や[[岡倉古志郎]]、[[杉浦明平]]などがいた。
東京帝国大学卒業後は、[[伊東胡蝶園]](現在のちのパピリオ<ref>戦後は[[帝人]]や[[アサヒペン]]などの企業に買収されながらも存続していたが、[[1990年]]に[[ツムラ]]により買収後は、同社の化粧品部門として存続していたが、[[1997年]]にツムラが同部門からの撤退に伴って清算され、企業そのものが消滅した。</ref>)宣伝部に入り社、[[広告]]デザインに携わる。[[1930年代]]末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き文字で顧客に語りかける、その後の『暮らしの手帖』を誌面のキーともなる、個性的なスタイルを取り入れ確立させている。[[太平洋戦争]]に応召するが、疾病気により除隊し、その後は敗戦まで[[大政翼賛会]]の外郭団体に籍を置いてき、国策広告に携わる。当時の代表的なキャッチコピー「'''欲しがりません 勝つまでは'''」というキャッチコピーは安治花森が考案したものと、しばしば言われるがこれは事実ではない。大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が小学生の娘の名前で応募した作品を安治花森が採用したものである。ただし、この点に関して戦後の安治、花森は一切弁明をしなかった。
除隊されたとはい言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した、彼は終戦後の[[1946年]]、編集者・画家の[[大橋鎮子]](社長)と共に'''衣装研究所'''を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして[[1948年]]には、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『[[暮しの手帖]]』に改題)を創刊する。[[1951年]]には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな[[雑誌]]で、中立性を守るためという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に現在今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まですべ、全て花森の手によるものである(<ref>なお花森追悼号となった第2世紀53号の表紙画には、花森が描いた予備のものが使われた)。</ref>。
豪放な性格、反骨精神と奇矯ながら、真摯な行動でも知られ、数々の逸話を残す。おかっぱ頭やスカート姿を貫いたのもその一端である。
[[1972年]]には著書『一銭(正しくは金を略した字)五厘の旗』で第23回[[読売文学賞]]随筆・紀行賞を受賞。また同年、『暮しの手帖』の活動により[[マグサイサイ賞|ラモン・マグサイサイ賞]]を受賞。1978年、[[心筋梗塞]]のため66歳で死去。
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なお『暮しの手帖』の表記についてであるが、これは'''『暮らしの手帳』ではない'''。-->
1978年、[[心筋梗塞]]により逝去。
*服飾の読本 衣裳研究所、1950
*流行の手帖 暮しの手帖社、1951
==関連項目==
*[[暮しの手帖]]
==脚注==
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== 外部リンク ==
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