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'''ガレット・エクボ'''(Garrett Eckbo、[[1910年]][[11月28日]] - [[2000年]][[5月14日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[造園家]]、[[環境デザイナー]]・[[ランドスケープアーキテクト]]で、[[EDAW]]創始者の一人。ランドスケープデザインの近代化を進め、また[[カリフォルニア大学]][[教授]]として、シビックデザインと[[ランドスケープデザイン]]教育にも携わったほか、多くの書物を著している。作品や著書は、ランドスケープ・アーキテクチュアを志す人間に多くの影響を与えている。
 
[[ニューヨーク州]]クーパースタウンに生まれる。父親はノルウェー人で、両親とも裕福な家庭に育ったがエクボが4歳のときに離婚し、一家でアリゾナからサンフランシスコの富裕層が居住するアラメダに移住する。
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臨時雇いの仕事をしながら、その後マリン短期大学を経て、1935年、[[カリフォルニア大学バークレー校]][[ランドスケープ]]学科を卒業。南カリフォルニアにあるアームストロング農園に勤務し、1年で100件近くの庭園を設計したあと[[奨学金]]を得て、[[ハーバード大学]][[大学院]]に進学。1938年に[[修士課程]][[修了]]。
 
2週間だけ[[トーマス・チャーチ]]の[[デザイン]][[事務所]]に勤務したあと、1939年から1942年にかけて、ファーム・セキュリティ社農場保全局に勤務し、アリゾナ州とカリフォルニア州にまたがる農務局・農業就労者のための宿営地、住宅地および住宅庭園、テキサス州ハーリンゲンのキャンプ公園スタディ(1940年)カリフォルニア州サンホアギルバレーのミネラルキングコープランチ小公園スタディ、ミッション地区バレンシアガーデン(1939年から1943年)などを手がけるほか、デザイナーグループ「テレシス」の活動や、勤労者学校で住宅計画や都市計画の講師をつとめる。自動車事故による足の怪我によって兵役免除になり、1939年ごろからは港湾施設と仮設住居の建設にも従事。1942年から1967年までは、義弟[[エドワード・ウィリアムズ]]らとパートナーを組んで設計活動を開設する。この間1946年には[[事務所]]をロサンゼルスにも開設して移住し、1948年から1956年にかけて、[[南カリフォルニア大学]]で講師および助教授に就任し、デザイナーの育成にも当たるほか、著作活動を展開する。
 
1965年にカリフォルニア大学バークレー校[[環境デザイン学部]]が創設され、[[造園学科]]教授に就任する。1968年から1973年まで、エクボ/ディーン/オースティン/ウィリアムズ(EDAW)として設計活動を展開。