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| 創刊 = [[{{和暦|1894年]](明治27年)}}[[12月26日]]
| 廃刊 = [[1949年]](昭{{24年)暦|1949}}[[12月29日]]<br />'''(以降は[[スポーツ報知|スポーツ紙]]に転換し現在も継続中)'''
| 前身 = 郵便報知新聞<br />([[1872年]][[7月15日]] - [[1894年]][[12月25日]])
| 1部 = '''(現在のスポーツ報知)'''130円
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| 公式サイト = http://hochi.yomiuri.co.jp/
}}
'''報知新聞'''(ほうちしんぶん)は、かつて日本で発行されていた日刊[[新聞]]の題号。[[{{和暦|1872年]](明治5年)}}に創刊された郵便報知新聞が前身。明治末から大正期にかけて「東京五大新聞」の一角を占めた有力紙の一つで、直営販売店制度の開始、日本初の新聞写真の掲載、日本初の女性ジャーナリストの採用や[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]の創設など、新聞史・社会史に大きな足跡を残した。第二次世界大戦後は[[スポーツ紙]]「[[スポーツ報知]]」となった。
 
==歴史==
=== 郵便報知新聞 ===
[[{{和暦|1872年]](明治5年)}}[[7月15日]]([[6月10日 (旧暦)]])、[[前嶋密]]らによって「'''郵便報知新聞'''」が創刊された(会社設立はその[[1873年|翌年]]。会社名は「報知社」)。草創期には旧幕臣の[[栗本鋤雲]]が主筆を務め、[[藤田茂吉]]・[[矢野龍渓]](文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした。[[{{和暦|1877年]](明治10年)}}に[[西南戦争]]が勃発すると、当時記者であった[[犬養毅]]による従軍ルポ「戦地直報」を掲載している。
 
[[{{和暦|1881年]](明治14年)}}、矢野龍渓は[[大隈重信]]と謀って同社を買収。犬養毅・[[尾崎行雄]]らが入社し、[[立憲改進党]]の機関紙となった。当時記者だった[[原敬]]はこれに反発して退社している。
 
政論新聞(大新聞)は[[自由民権運動]]の退潮とともに人気が低下。[[{{和暦|1886年]](明治19年)}}に同社に迎えられた[[三木善八]]は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図ることになる。
 
=== 「東京五大新聞」の一角 ===
[[{{和暦|1894年]](明治27年)}}に三木善八が社主に就任、同年12月26日「'''報知新聞'''」と改題した。[[1898年]]には案内広告のはじまりである「職業案内」欄が創設された。報知新聞がこの欄を創設したことの最大の功績は、掲載された校正係募集を見て入社した松岡もと子(後に結婚して[[羽仁もと子]])が日本初の婦人記者となったことであろう。
 
[[{{和暦|1901年]](明治34年)}}[[1月2日|1月2]]~[[1月3日|3日]]付け紙面では「[[二十世紀の豫言]]」を掲載。[[20世紀]]中に実現すると予想される23項目の事柄が書かれている。科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い。[[{{和暦|1903年]](明治36年)}}には新聞直営店制を開始した。[[{{和暦|1904年]](明治37年)}}には[[川上貞奴]]の写真を掲載、これは日本初の新聞写真であった。[[{{和暦|1906年]](明治39年)}}には夕刊の発行を開始する。[[{{和暦|1913年]](大正2年)}}の[[第一次護憲運動]]では政府系と見られて群衆の襲撃を受けた。[[{{和暦|1920年]](大正9年)}}には[[東京箱根間往復大学駅伝競走]]を創設した。
 
明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞([[東京日日新聞|東京日日]]・[[時事新報|時事]]・[[國民新聞|國民]]・[[東京朝日新聞|東京朝日]]・報知)の一角を占めた。[[{{和暦|1923年]](大正12年)}}の[[関東大震災]]では社屋の焼失を免れたものの、その後は大阪を基盤に置く東京朝日や[[大阪毎日新聞|大阪毎日]]の傘下となった東京日日の台頭によって部数を減らすことになる。
 
=== 買収・統合・再出発 ===