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[[画像:Général_François_Étienne_Kellermann.jpg‎|thumb|200px|]]
'''フランソワ・エティエンヌ・ド・ケレルマン''', '''2代目ヴァルミー公爵''' ([[1770年]][[8月4日]] - [[1835年]][[6月2日]]) は[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の[[騎兵]] [[将軍]] 。フランス帝国の名誉元帥[[フランソワ・クリストフ・ケレルマン]]の息子、外交官フランソワ・クリストフ・エドモン・ド・ケレルマンの父親。 [[ナポレオン戦争]]における大胆かつ熟達した戦法によ活躍したことにより有名。
 
== 青年期及びフランス革命戦争 ==
ケレルマンは[[メスのボル (フラス)|メス]]まれ、父親の軽騎兵連隊に短期間勤務したケレルマンはあと、1791年に外交官になるまでの短い間彼の父親のユサール連隊に従軍した。1793年に軍に復帰したケレルマン主に父親の下で指揮するアルプス戦線方面の部隊従事して活躍勤務し、1796年には連隊長に昇した。1796年から1797年にかけて[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]有名なイタリア戦役の後半において、若きケレルマンはリアメント川の強行渡河において活躍ける目覚い働きで未来の皇帝の知己注意得てひきつけ、直ちに准将に昇した。イタリアにおける[[カンポ・フォルミオ条約]]の成立後、ケレルマンはマクドナルドおよびシャンピオネ指揮下のローマ及びナポリの軍隊に留まった<ref>Arnold, p 179-181</ref>
 
[[マレンゴの戦い]]においてケレルマンは第一執政指揮下の重騎兵団を率いて歴史上もっとも有名な突撃の一つとされる騎兵突撃を行った。[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ゼー|ドゼー]]の歩兵による突撃攻勢と連携して行われたその突撃は、敗北しかけていた戦況を逆転した)を、戦争の方を決定付けるものであった。この突撃によりときケレルマンの騎兵部隊は消耗した騎兵旅団よび3個り、若干の竜騎兵旅団と少数の部隊その他を加えたものとなっていた。突撃は完璧なタイミングで行われ、オーストリア軍の3個擲弾兵大隊を壊走させ、突き崩した。その後部隊を急速に再編したケレルマンは直ちに部隊を再編すると、オーストリア竜騎兵を攻に襲いかかり、追するした竜騎兵隊は自軍の隊列を乱しながら敗走し、オーストリア軍はをうれとなて敗走し<ref>Arnold, p 179-181</ref>
 
ケレルマンはすぐに少将に昇進したが、早くも戦いのその晩から、自分の功績手柄軽視された過小評価する企てがあると考え憤慨し、白熱ていた。ケレルマンの突撃が戦いの帰趨におよぼした影響についてはその後も熱い論争を引が続起こした。彼、ケレルマンはこの論争では件によ切妥協や寛容といて、何の忍耐も機転のを示そうとしなかった。おまけに、論争は出世に何の影響も与えなかった。しかし、マレンゴでの彼の功績あまりに大きかったためにこの論争での振る舞や、度重なる醜聞や論争、さらには私生活における不正行為などによっもケレルマン、その経歴破滅す台無しになることなかった。
 
== ナポレオン戦争 ==
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第二次王政復古においてケレルマンは名誉を剥奪された。けれども、1820年には父親の爵位を継承しフランス貴族に列せられた。ブルボン王家に対する断固とした態度は1830年にシャルル10世が没落するまで続けられた。彼は1835年6月2日にその生涯を閉じた。
 
== 出典 ==
*Arnold, James R. ''Marengo & Hohenlinden.'' Pen & Sword, 2005.
*Balkoski, Joseph. Strategy & Tactics magazine 74, "Ney vs. Wellington: The Battle of Quatre Bras." May-June 1979.
*Smith, Digby. ''The Napoleonic Wars Data Book.'' London: Greenhill, 1998.
*Weller, Jac. ''Wellington in the Peninsula.'' London: Nicholas Vane, 1962.
*{{1911|Kellermann, François Christophe de}}
 
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