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[[1920年]]より[[文部省]]留学生としてイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスへ留学した。この間、[[ルートヴィヒ・プラントル]]や[[セオドア・フォン・カルマン]]から航空技術を学んでいる。留学中の[[1921年]]に東京帝国大学[[航空研究所]]の所員となり、翌[[1922年]]に帰国した。[[文部省]]の航空用語調査委員などを務める一方、[[1923年]]には東京帝国大学工学部の[[教授]]に就任した。[[1927年]]には『不等空気速度の測定について』という論文で[[博士号]]を取得している。このころ[[風洞]]の研究を行ない、[[田中舘愛橘]]らと交流があった。
 
[[1932年]]、[[斯波忠三郎]]の後を受けて、所員間の選挙で航空研究所の所長に選出された。中小企業だった[[東京瓦斯電気工業]](現在の[[いすゞ自動車]]や[[日野自動車]])に機体開発を依頼し、エンジンには[[BMW]]の中古[[ガソリンエンジン]]を用いるなど工夫をこらし、[[航研機]]の開発を指導した。この機は[[1938年]][[5月13日]]に千葉県木更津の海軍飛行場を離陸して、千葉県銚子を経て群馬県太田の中島飛行機株式会社の本館上空で左旋回し、神奈川県平塚海岸の航空灯台を回って、木更津の基点に戻る1周401.759kmの3角コースで11,651kmという長距離飛行の世界記録を樹立した。[[1942年]]に政府によって内閣に[[技術院]]が設立されるとその次長となった。当時、航空研究所を技術院に移管する計画があったが和田はこれを拒否している。
 
[[1944年]]12月、[[レーダー]]開発のため[[東京工業大学]]学長だった[[八木秀次]]が技術院総裁に迎えられ、和田は後任として同大学の学長に就任した。この頃の和田のメモには、社会における研究活動の在り方に関する考察が残されており、終戦間もない[[1945年]][[9月28日]]に大学改革の提案を行なった。この改革では[[マサチューセッツ工科大学]]を参考にしたもので、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に評価され、翌年に和田は「大学設立基準設定に関する協議会」第二委員会の委員長に任命されている。[[1952年]][[6月11日]]、[[胃癌]]のため62歳で逝去。[[勲一等]][[瑞宝章]]が追贈された。