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=== 第3共和政期(1870年 - 1940年) ===
[[普仏戦争]](1870年 - 1871年)の敗北に伴って第2帝政が崩壊すると、ボナパルティストを嫌い[[共和主義]]を恐れる人々は選挙で君主制支持者に投票し、結果として1872年12月に[[ボルドー]]で開かれた国民議会は王党派が多数派を占めた。同議会では、個々の能力の抜きんでているオルレアニストが再び主導権をにぎることになったが、[[レジティミスト]]たちも彼らに対抗する姿勢を見せた。オルレアニストの大統領[[アドルフ・ティエール]]は、自分の所属する王党派の望まない[[フランス第三共和政|第3共和国]]を樹立した。オルレアニストはレジティミストと協力し、1873年5月24日にティエールから大統領職を奪った。
 
この後、オルレアニストは王政復古の大義のためにレジティミストとの合同を模索し始めた。かつて1850年、ギゾーもまた両派の合同構想を抱いていたが、[[アンリ・ダルトワ|シャンボール伯爵]]が「神意」による王権を求めて合同を否認するのは明らかであった。1873年に合同が成立した時には、重要な歩み寄りがあった。協議が行われた結果、オルレアン家の王位要求者である[[フィリップ (パリ伯)|パリ伯爵フィリップ]]とシャンボール伯爵との対面が[[ランツェンキルヘン|フロースドルフ]]で実現した。パリ伯爵はこの訪問は一族の家長に対する表敬訪問であるだけでなく、「あちら方の主義主張を受け入れる」ことの表明である、と宣言した(ただし、オルレアニストは時にパリ伯爵による宣言は[[心的留保]]を伴って行われたものである、と主張している)。しかし結局、最終的な合意が成立に至ることはなかった。
 
[[共和主義者]]は1876年の総選挙で勢力を盛り返し、1877年に[[1877年5月16日危機|5月16日危機]]が起きると同時に王党派による共和国支配は終焉を迎えた。1883年、シャンボール伯爵が没すると同時にブルボン王家の嫡系は絶え、パリ伯爵がフランス王家の家長を引き継いだ。しかし、独立した政治党派としてのオルレアニストは消滅し、かつての支持者たちの多くが共和国体制に順応していった。
 
一方で、1899年に創設された急進的な右翼組織「[[アクシオン・フランセーズ]]」は、共和国体制がやがて崩壊を迎えることは目に見えており、オルレアン家こそはフランスの民族統合を救う唯一の存在であるとして、支持基盤の崩壊した同家を支持した。こうしてオルレアニスムは新たな生命力を得たが、その主導権は真正の君主制支持者など眼中にない別の組織に渡ってしまった。本来のオルレアニストのもつ、正統王朝と共和主義者という両極端のあいだに存在する穏健派という性格は、失われてしまったのである。