「于右任」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ChuispastonBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: fr:Yu Youren
注、若干加筆
3行目:
| 画像=[[File:Yu Youren.jpg|180px]]
| 画像の説明=
| 出生=[[1879年]][[4月11日]]<br/>([[清]][[光緒]]5年3月20日
| 死去=[[1964年]]([[民国紀元|民国]]53年)[[11月10日]]<br>{{CHN1928TWN}}[[台北市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[陝西省]][[西安市|西安府]][[三原県]]
| 職業=政治家・軍人・書家・文化人・教育家・ジャーナリスト
21行目:
[[Image:行天宮3.jpg|right|260px|thumb|于右任が題字を書いた[[台北市]]の[[行天宮]]]]
 
'''于 右任'''(う ゆうじん)は[[清|清末]]から[[中華民国]]にかけての政治家・軍人・書家・文化人・教育家・ジャーナリスト。[[中国同盟会]]以来の古参の革命派で、[[国民政府]]の[[中華民国監察院|監察院]]院長として知られる。名は'''伯循'''だが、一般には[[字]]の'''右任'''を用いて呼ばれる。筆名は、'''神州旧主'''、'''騒心'''、'''大風'''、'''剥果'''、'''太平老人'''など多数ある。祖籍は[[陝西省]][[西安市|西安府]][[涇陽県]]。<ref name=Liu>劉国銘主編(2005)、19頁。</ref>
 
== 事跡 ==
=== 清末民初の活動 ===
[[1903年]]([[光緒]]29年)、癸卯科[[挙人]]となった。しかし政治を風刺したとして、清朝の指名手配を受け、翌年から[[上海市|上海]]に隠れ住んだ。震旦学院を卒業後、学友とともに復旦公学(後の[[復旦大学]])を創設した。[[1906年]](光緒32年)、日本に留学し、[[中国同盟会]]に加入した。帰国後の[[1907年]](光緒33年)4月、上海で『神州日報』を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。<ref name=Xu>徐主編(2007)、27頁。</ref><ref name=Liu/>
 
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)1月、[[南京市|南京]]で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、[[宋教仁]]が暗殺されると、[[袁世凱]]打倒のために二次革命([[第二革命]])などに参与した。[[護法運動]]が開始された[[1918年]](民国7年)に故郷へ戻り、[[胡景翼]]とともに[[陝西省 (中華民国)|陝西]]靖国軍を組織して、于右任が総司令となった。[[1922年]](民国11年)5月、于右任は上海に移る。そして[[葉楚ソウ|葉楚&#x5096;]]とともに[[国立上海大学]]を創設し、于右任が校長となった。[[1924年]](民国13年)4月、[[中国国民党]]第1期中央執行委員に選出された。同年12月に[[孫文]]に随従して[[北京市|北京]]入りしている。<ref name=Xu/><ref name=Liu/>
[[1906年]](光緒32年)、日本に留学し、[[中国同盟会]]に加入した。帰国後の[[1907年]](光緒33年)4月、上海で『神州日報』を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。
 
=== 国民政府時代の活動 ===
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)1月、[[南京市|南京]]で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、[[宋教仁]]が暗殺されると、[[袁世凱]]打倒のために二次革命([[第二革命]])などに参与した。[[護法運動]]が開始された[[1918年]](民国7年)に故郷へ戻り、[[胡景翼]]とともに[[陝西省 (中華民国)|陝西]]靖国軍を組織して、于右任が総司令となった。
[[1926年]](民国15年)9月、于右任は[[馮玉祥]]による[[五原誓師]]に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、[[石敬亭]]が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、[[北伐]]に呼応する準備を整えた。4月、蒋介石が南京に[[国民政府]]を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。[[1928年]](民国17年)2月、審計院院長に任命される。[[1931年]](民国20年)11月<ref>『民人物大辞典 増訂版』銘主編(2005)、19-20頁と劉寿林ほか編(1995)、417頁によればる。徐主編(2007)は同年6月としている。</ref>、于右任は[[中華民国監察院|監察院]]院長に任命され、以後死去するまで30数年に渡り、この地位に終身あり続けた。国民党でも、第1期から第6期まで一貫して中央執行委員に選出されている。また、[[1938年]](民国27年)には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた。<ref name=Xu/><ref name=Liu/>
 
[[19221948年]](民国1137)5月、于右任は上海に移る。そして[[葉楚ソウ中華民国副総統|葉楚&#x5096;副総統]]ととも選挙出馬したが敗れた([[李宗仁]]が当選)。[[国立上海大学共内戦]]を創設が終盤にさ、于右任が校長となかかった[[19241949年]](民国1338)4月)に于は[[中国台湾]]へ逃れている。翌年に国民党]]第1期中央執行評議委員に選出されを兼任した。同年12月に[[孫<ref name=Xu/><ref name=Liu/>于は政治家として活動する一方、]]に随従化人として[[北京市|北京]]入りも知られ、書・漢詩などで優れた作品を残している。
 
[[1964年]](民国53年)11月10日、[[北市]]で死去。享年8686(満85歳)
[[1926年]](民国15年)9月、于右任は[[馮玉祥]]による[[五原誓師]]に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、[[石敬亭]]が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、[[北伐]]に呼応する準備を整えた。4月、蒋介石が南京に[[国民政府]]を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。
 
[[1928年]](民国17年)2月、審計院院長に任命される。[[1931年]](民国20年)11月<ref>『民国人物大辞典 増訂版』によれば6月。</ref>、于右任は[[中華民国監察院|監察院]]院長に任命され、以後死去するまで30数年に渡り、この地位に終身あり続けた。国民党でも、第1期から第6期まで一貫して中央執行委員に選出されている。また、[[1938年]](民国27年)には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた。
 
[[1948年]](民国37年)、于右任は[[中華民国副総統|副総統]]選挙に出馬したが敗れた([[李宗仁]]が当選)。[[国共内戦]]が終盤にさしかかった[[1949年]](民国38年)に、于は[[台湾]]へ逃れている。翌年に国民党評議委員を兼任した。于は政治家として活動する一方、文化人としても知られ、書・漢詩などで優れた作品を残している。
 
[[1964年]](民国53年)11月10日、台湾で死去。享年86。
 
== 注 ==