「吉田万里子 (プロレスラー)」の版間の差分

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==経歴・戦歴==
[[1988年]][[全日本女子プロレス]]に入団。翌年[[メキシコ]]に短期遠征に出、[[グラン・アパッチェ]]の下で[[ルチャリブレ]]の技術を学ぶ。帰国後、三角跳びプランチャなどの「マリポーサ殺法」と呼ばれた高度な空中技で注目され「感度No.1」の評価を得る。
 
[[1992年]][[10月]]、[[頸椎]]損傷により1年10ヶ月に及ぶ長期欠場を強いられる。この間に[[UWFインターナショナル]]の試合を観戦したのがきっかけで、空中技主体から関節技主体へファイトスタイルを変える事を決意、[[藤原喜明]]の門を叩く。[[1994年]][[8月]]に復帰後は、体調の問題や、自身の方向性と全女フロントの意向との板ばさみになるなどの要因から、同期の[[井上京子]]、[[井上貴子]]に比べ精彩を欠いていたが、[[1997年]][[9月]]の全女退社→[[アルシオン]]入団を機に空中技を封印。サブミッション・レスラーに転身した。