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|région = [[アルザス地域圏]][[file:Flag of Alsace.svg|25px]]
|département = [[バ=ラン県]][[file:Blason département fr Bas-Rhin.svg|25px]]
|arrondissement =
|canton = 小郡庁所在地
|insee = 67544
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| siteweb = [http://www.cc-pays-wissembourg.fr/ www.cc-pays-wissembourg.fr]
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==地理==
アルザス北部にある
==歴史==
[[file:Wissembourg-1.jpg|left|thumb|200px|17世紀の
[[File:Wissembourg, Sts. Peter and Paul Church, crossing tower.jpg|left|thumb|200px|サン・ピエール・エ・サン・ポール教会]]
[[File:Wissembourg, Maison du sel, Frankreich.jpg|left|thumb|200px|メゾン・デュ・セル]]
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コミューンは自らの議会の議員を選べるようになり、繁栄は頂点に達した。その富は、織物やワイン、クリの生産からもたらされていた。
14世紀、修道院の影響下からの独立を強調する
1469年、修道院長フィリップ・エルパハが死んだとき、修道院には実質的な借金が残された。新しい院長のジャン・ド・ブリュックは修道院を復興させようとした。しかし[[アグノー]]領主であるプファルツ選帝侯[[フリードリヒ1世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ1世]]が、自ら十都市同盟の知事として治めると決めた。彼は修道院に捜査官を送りこんだ。ブリュックはドラケンフェルス城への引退を決めた。土地を所有する
15世紀の対立は、選帝侯によって
16世紀、[[宗教改革]]が
[[ヴェストファーレン条約]]締結後、フランスはハプスブルク家が治めてきたアルザスをフランス領とみなした。しかし十都市同盟都市はフランス王を主君と認めなかった。これによりフランス軍の容赦ない遠征さらされ、1677年1月25日にはコミューンは燃やされ略奪された。この鎮圧が終わると、1680年に、[[神聖ローマ皇帝]]に救われなかった十都市同盟の姉妹都市たちはフランス王の臣下となった。
退位した[[ポーランド]]王、[[スタニスワフ・レシチニスキ]]は、亡命時代に家族と
[[フランス革命]]後、聖職者たちは追放され、修道院資産は売却された。1793年と1870年、
{{デフォルトソート:うい
[[Category:バ=ラン県のコミューン]]
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