「大雪丸 (初代)」の版間の差分

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[[1946年]](昭和21年)夏、[[運輸省]]はGHQより青函航路に客貨連絡船4隻、貨物連絡船4隻、計8隻という大量の車両渡船建造の許可を取り付けることに成功した。この客貨連絡船のうち1隻が大雪丸である。
 
大雪丸は[[1947年]](昭和22年)3月26日に[[三菱重工業神戸造船所]]で起工し、[[1948年]](昭和23年)10月25日竣工。同年11月27日に青函航路に就航する。戦前客室を持つ車両渡船としての基本は1924年に建造された[[翔鳳丸]]の構造に準じながらも、設計期間節約するため、H型船の船図を流用し<ref>山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960</ref>、正規の二重底に設計変更するなど基本と平時向け改良を施ていて、た。輸送力増強を図るため翔鳳丸型に比べ全長が8m約9m延長され118.7mともになり、総トン数も3400トン級から3800トン級へと大型化されている。収容旅客数を増やすために体舷側にある下部遊歩甲板に3等椅子席を設けた関係から、車両甲板積込口も開口した仕様線路数をそれまでの3本から2本に減らさざるを得なかったため、車輌積載両数は翔鳳丸型の[[国鉄ワム80000形貨車|ワム車]]25両に対して18両と減少している
 
旅客定員は翔鳳丸型の895人から1144人<ref>青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>に増やすため、車両甲板両側中2階の、翔鳳丸型では幅の狭い暴露甲板であった下部遊歩甲板の幅を広げ、舷側外板で囲い、大型の窓を多数つけ3等船室とし、3等出入口、3等食堂、3等椅子席を設置した。このため、車両甲板の線路数は、翔鳳丸型の3本から2本に減らされた。車輌積載両数は寝台車4両、手小荷物車2両、郵便車1両の計7両であった。これはワム18両相当で、翔鳳丸型よりワム7両減で、青函航路の車両渡船としては最小の積載両数となった[2]。
 
3等船室はこのほか、翔鳳丸型同様に車両甲板下の第二甲板のボイラー室とタービン室の前後に畳敷き雑居室が設けられた。
 
車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板には、前方から2段寝台4人部屋の1等船室10室と2人部屋の特別室2室があり、その後方には天窓を有し、両舷にわたる1等出入口広間があり、その後方左舷側には1、2等食堂があった。これの右舷側の通路兼用の喫煙室との仕切りがガラス張りというモダンなデザインであった。その後方には、開放2段寝台で定員30名の2等寝台室、2等出入口広間と続き、その後方に定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室があった<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988</ref>。
 
動力は従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラー、蒸気タービン2台2軸を採用し、缶数も6台に戻ったが、本船と羊蹄丸では、乾熱室式円缶が調達できず、三菱水管缶6缶となった<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p285 成山堂書店1988</ref>。ボイラーからの煙路は翔鳳丸型とは異なり、青函丸型同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。
 
これにより、煙突は2列に並ぶ4本となり、堂々たる印象を与えた。試運転最大速力は17.6ノットと、16.9ノットの翔鳳丸型と殆ど変わらなかったため、函館-青森間4時間30分という戦前以来の標準航海時間について変化はなかった。
 
洞爺丸台風では函館港を出港後猛烈な波浪に襲われたが、「南西の風の場合は木古内へ行け」との経験則に従い木古内を目指し、機関や舵の故障に見舞われながらも乗員の懸命の努力により木古内にたどり着き、沈没を免れている。
 
洞爺丸台風による青函連絡船の沈没原因としては、その後の研究で、当夜 函館湾をおそった大波の波長が約120mで、当時の車両渡船の水線長よりわずかに長かったため、ピッチングで船尾が水中に没したとき、水を車両甲板上にすくい上げる形となり、つづいて船尾が上がるとその水が船首側へ流れこみ、やがて車両甲板上に水が滞留してしまったため、と判明<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p323 成山堂書店1988</ref>。
 
対策として、
1955年12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として予備浮力とし、救命ボートを吊っているボートダビットを迅速に作動する重力型に交換<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988</ref>。
1960年3月には船尾水密扉設置で車両格納所の完全密閉化し、ボイラーをC重油専燃式に改造し右舷最後部の6号缶を撤去した<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988</ref>。
 
その後青函航路では[[1964年]](昭和39年)まで活躍し、その後海外に売船された。海外ではカーフェリーとして活躍したが、その間にイスラエルの特殊部隊からの攻撃を受けるなど流転の運命をたどっている。しかし最後は航行中の火災により爆発、[[アドリア海]]に沈み、その数奇な運命を閉じることとなった。
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** 22:00 浸水のため舵が故障する。
** 0:00 木古内湾に停船。沈没は免れたが航行不能となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[12月]] - 下部遊歩甲板 水密丸窓化 重力型ボートダビット装備
* [[1960年]](昭和35年)[[3月]] - 船尾水密扉設置 ボイラー重油専燃化 6缶から5缶に
* [[1964年]](昭和39年)[[8月31日]] - 青函航路での運航を終了する。
 
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{{DEFAULTSORT:たいせつまる1}}
==脚 注==
<references/>
 
{{青函連絡船の船舶}}