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{{by|1995年}}は[[西濃運輸硬式野球部|西濃運輸]]の補強選手として[[第66回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場。また同年は[[第18回アジア野球選手権大会|アジア選手権]]の代表に選ばれ、クローザーを任された。最終日の対韓国戦で[[舩木聖士]]を5回途中から救援して9回まで無失点に抑え、これがチームのサヨナラ勝ちに結びついている<ref name="mainichi_19960626">毎日新聞、1996年6月26日付朝刊、P.25</ref>。また、10月には[[キューバ]]で開催された[[IBAFインターコンチネンタルカップ]]にも派遣された。{{by|1996年}}には[[アトランタオリンピック野球日本代表|アトランタ五輪野球日本代表]]に最年長選手として選ばれた<ref name="mainichi_19960626"/>。[[アトランタオリンピックにおける野球競技|本大会]]では右ひじ痛のため当初は予選後半から出場する予定だった<ref>朝日新聞、1996年7月20日付朝刊、P.27</ref>が、第1戦の対[[野球オランダ代表|オランダ]]戦から登板した。同大会ではチーム最多の6試合に登板してチームトップの[[防御率]]4.50を記録し<ref name="takarajima_94">別冊宝島、1545号、P.94</ref>、銀メダル獲得に貢献している。
 
{{by|1997年}}は[[昭和コンクリート工業硬式野球部|昭和コンクリート]]の補強選手として[[第68回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場し、10年連続出場の表彰を受けた<ref>毎日新聞、1997年7月1日付朝刊、愛知地方面</ref>。同年限りで現役を引退して{{by|1998年}}はコーチを務め、[[岩瀬仁紀]]に[[スライダー_(球種)|高速スライダー]]を伝授している<ref>毎日新聞、2009年5月23日付朝刊、愛知地方面</ref><ref>朝日新聞、2011年6月13日付夕刊、中部地方版P.8</ref>。NTTの組織再編に伴って野球部の廃部が決まったことを受け、{{by|1999年}}に現役に復帰した。{{by|2000年}}からはNTT西日本名古屋野球クラブに所属して[[西日本電信電話|NTT西日本]]で社業の営業活動を行いながら現役を続け、同年は西濃運輸の補強選手として[[第71回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場している<ref>毎日新聞、2000年7月19日付朝刊、P.20</ref>。{{by|2002年}}の都市対抗予選をもってNTT西日本名古屋野球クラブも解散となり、最終戦に登板した<ref>毎日新聞、2002年6月30日付朝刊、愛知地方面</ref>。
 
===現役引退後===
{{by|2003年}}より[[愛知ベースボール倶楽部]]の監督に就任し、{{by|2007年}}にはチームを[[全日本クラブ野球選手権]]へ初出場させている。たが、[[豊川高等学校]]から監督として招聘されたことを受け、同年末にNTTを退社して{{by|2008年}}より同校野球部監督に就任した<ref name="mainichi_20030621"/>。選手たちに自分たちで考える姿勢を植えつけてチームに一体感が生まれ、{{by|2009年}}には13年ぶりの秋季東海大会進出を果たしている<ref>毎日新聞、2009年10月22日付朝刊、愛知地方面</ref>。
 
==プレースタイル==
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==主な表彰==
*[[第65回都市対抗野球大会|第65回都市対抗野球]]橋戸賞(1994年)
*都市対抗野球本大会10年連続出場(1977年、[[昭和コンクリート工業硬式野球部|昭和コンクリート]]の補強選手として達成)<ref>毎日新聞、1997年7月1日付朝刊、愛知地方面</ref>
 
== 脚注 ==