「ニュルンベルク」の版間の差分

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=== 略史 ===
==== 都市の成立初期 ====
ニュルンベルクの成立は明らかでない。[[ザクセン]]、[[バイエルン州|バイエルン]]、[[東フランク]]、[[ボヘミア|ベーメン]]の境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期にすでに市場の開催権を得ていた。この街は[[1050年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]のSigena-Urkundeに「nuorenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味している。その後ニュルンベルク城は皇帝の拠点として[[神聖ローマ帝国]]で重きをなした。[[1065年]]に[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]は裁判権と統治権を持つ[[ニュルンベルク城伯]]の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。[[1190年]]あるいは[[1191年]]以後、この地位はツォレルン家(後の[[ホーエンツォレルン家]])に移された。
 
[[1219年]]、皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の大特権授与によりニュルンベルクは[[帝国自由都市]]となった。城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点は[[バイロイト]]や[[アンスバッハ]]などに移っていった。[[1427年]]、最後の城伯[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]([[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。これ以後、[[バイエルン王国]]に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。