「和田三造」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ZéroBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: de:Wada Sanzō
15行目:
1927年、帝国美術院(現・[[日本芸術院]])会員となる。同年、我が国における色彩の標準化の必要性に着目し、[[日本標準色協会]]を創立する。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。1932年、東京美術学校図案科教授に就任し、1944年まで務めている。1945年、日本標準色協会を[[日本色彩研究所]]に改組し、理事長に就任する。1951年には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
 
1953年、[[大映]]映画『[[地獄門]]』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年の第26回[[第27回アカデミー賞]]で[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞する。なお、『地獄門』は、1954年の[[第7回カンヌ国際映画祭]]においても、その色彩の美しさを高く評価され、[[パルム・ドール]](最高賞)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や[[水墨画]]にも活躍し、1958年、[[文化功労者]]に選ばれている。
 
1967年8月22日、[[嚥下性肺炎]]のため[[東京逓信病院]]で死去。享年84。