「ウィリアム・カドガン (初代カドガン伯)」の版間の差分

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[[1711年]]にマールバラ公が失脚した後も大陸に残ったが、[[1712年]]に後任の司令官・[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|オーモンド公]]がイギリス軍を大陸から引き上げさせた時、命令に従わず亡命、先にイギリスから大陸へ亡命したマールバラ公の後を追って同行、イギリスとマールバラ公の仲介に手を尽くした。[[1714年]]に[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]が即位、マールバラ公を失脚させた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が失脚・弾劾され[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が政権を握るとマールバラ公と共に帰国、[[1715年]]に[[ジャコバイト]]が反乱を起こすと総指揮を執り反乱を鎮圧した。
 
[[1716年]]に[[バークシャー]]・[[レディング]]の土地を購入して宮殿を建造した。また、同年に男爵に叙爵され[[シッスル勲章]]を受勲、[[1717年]]に[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]のメンバーに選ばれ、[[1718年]]に伯爵に叙爵して[[ワイト島]]の知事総督に任命され、[[1722年]]に[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊|ボード・オブ・オードナンス]]長官兵站部総監([[:en:Master-General of the Ordnance|en]])と[[グレナディアガーズ]]隊長に任じられるなどホイッグ党政権下で厚遇された。1726年に51歳で死去、息子がいなかったため弟の[[チャールズ・カドガン (第2代カドガン男爵)|チャールズ]]が爵位を継承した(但し、男爵に降格)。
 
1704年に[[デン・ハーグ|ハーグ]]でマーガレット・セシリア・ミュンターと結婚、2人の娘を儲けた。長女サラはイングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と[[ルイーズ・ケルアイユ]]の庶出の孫に当たるリッチモンド公[[チャールズ・レノックス (第2代リッチモンド公)|チャールズ・レノックス]]と結婚、次女マーガレットはポートランド伯[[ウィリアム・ベンティンク (初代ポートランド伯)|ウィリアム・ベンティンク]]の息子チャールズ・ジョン・ベンティンクと結婚した。
 
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{{s-bef|before= [[ジョージ・ステップニー]]}}
{{s-ttl|title= [[駐蘭大使 (イギリス)|駐蘭大使]] |years=1707年 - 1709年 }}
{{s-aft|after= [[チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)|タウンゼンド子爵]]}}
{{s-bef|before= [[トマス・ウェントワース (1672-1739)|ストラフォード伯]]}}
{{s-ttl|title= 駐蘭大使 |years=1714年 - 1720年}}
{{s-aft|after= [[チャールズ・ホイットワース (初代ホイットワース男爵)|チャールズ・ホイットワース]]}}
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{{succession box | before=[[チャールズ・チャーチル (1656-1714)|チャールズ・チャーチル]] | title=[[ロンドン塔総督]] | years=1709年 - 1715年 | after=[[ハットン・コンプトン]]}}
{{succession box | before=[[ジョン・リッチモンド・ウェッブ]] | title=[[ワイト島総督]] | years=1715年 - 1726年 | after=[[チャールズ・パウレット (第3代ボルトン公)|ボルトン公]]}}
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{{S-ttl | title=[[カドガン伯]] | years=1718年 - 1726年}}
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== 参考文献 ==
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