「大分恵尺」の版間の差分

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大分氏は、[[豊後国]][[大分郡]]の豪族である。壬申の乱の勃発時、恵尺は大海人皇子の[[舎人]]だったと推測される。
 
大海人皇子は、6月24日に吉野で行動を起こす際に、倭([[大和国]])の京の留守司[[高坂王]]に使者を遣わし、[[駅鈴]]を求めた。このときの使者に、大分恵尺、[[黄書大伴]]、[[逢伊勢志摩]]の3人が選ばれた。皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江([[大津京]])に行き、[[高市皇子]]と[[大津皇子]]を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが、得られなかった。恵尺は近江に向かった。
 
事情は不明だが、高市皇子と大津皇子はそれぞれ別々の集団を作って脱出し、高市皇子は翌25日に伊賀の積殖山口で大海人皇子一行に合流した。大分恵尺は大津皇子に同行して伊勢に向かい、その日の深夜に[[鈴鹿関]]で大海人皇子の配下に制止された。鈴鹿関司ははじめ一行を[[山部王]]と[[石川王]]だと誤認したが、翌日に大津皇子と判明した。この後の恵尺の活動については記録がない。