「内モンゴル独立運動」の版間の差分

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[[ファイル:China Inner Mongolia.svg|thumb|350px|[[南モンゴル]]]]
'''内モンゴル独立運動'''(うちもんごるどくりつうんどう)は、[[中華人民共和国]]の実効支配下にある[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]([[内蒙古|南モンゴル]])における先住民族である[[モンゴル|モンゴル人]]の独立運動のこと。モンゴル人による独立運動には全権独立を求めるものから高度自治を求めるものがある。
 
== 歴史 ==
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[[ファイル:Anti-Chinese government rally on 6 November 2010 at Hibiya 01.jpg|thumb|[[モンゴル自由連盟党]]などが参加した「[[中国のアジア侵略・人権弾圧を阻止する抗議デモ|自由と人権アジア連帯集会]]」([[2010年]][[11月6日]][[日比谷公園]])]]
[[ファイル:Inner Mongol.svg|thumb|[[内モンゴル人民党|内モンゴル人民党旗]]]]
[[1636年]]に[[満州民族|満州人]]が建国した[[清|大清帝国]]は[[満州|満洲]]、[[モンゴル]]、[[チベット]]、[[東トルキスタン]]、[[中国本土]]、[[朝鮮]]におよぶ大帝国であった。満州人は[[モンゴル帝国]]の[[玉璽]]をモンゴル王族から受け継ぎ大清帝国を建国するという形をとり、モンゴル人と血縁関係を結ぶとともにモンゴル人を優遇していた。[[1906年]]に[[漢民族]]の[[孫文]]が「駆除[[満州民族|韃虜]]、回復[[中華]]」を提唱し<ref name=sakai20040224>{{cite web
| url = http://sakainobuhiko.com/2004/02/post-18.html#extended
| title = 中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―
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| date = 2004年2月24日
| accessdate = 2011-01-06
}}</ref>、[[1911年]]に漢民族によって「駆除[[ツングース|韃虜]]、恢復[[中華]]」をスローガンに[[辛亥革命]]が行われ、大清帝国は崩壊した。崩壊直前の1911年12月に[[外蒙古|外モンゴル]]では[[ロシア帝国]]を後ろ盾としたモンゴル人諸侯によって[[チベット民族|チベット人]][[活仏]]の[[ボグド・ハーン]]を[[皇帝]]とする独立国家が樹立された('''[[ボグド・ハーン政権]]''')。[[1912年]][[1月1日]]に漢民族によって[[中国本土]]に[[中華民国]]が建国されると臨時大総統に就任した[[孫文]]は[[漢民族|漢人]]・[[満州民族|満州人]]・[[モンゴル|モンゴル人]]・[[ウイグル人]]・[[チベット民族|チベット人]]を一つに合わせて一国とする旨を宣言した<ref name=sakai20040224/>。
 
[[1913年]][[1月11日]]、[[モンゴル|モンゴル人]]、[[チベット人]]は'''[[チベット・モンゴル相互承認条約]]'''を締結して[[チベット]]・[[モンゴル]]は[[清|清王朝]]から独立するとともに外部からの侵略に対して相互防衛を図ることとした<ref>[http://zh.wikisource.org/zh/%E8%92%99%E8%97%8F%E6%A2%9D%E7%B4%84 蒙藏條約] [[Wikisource]]</ref>。外モンゴルの[[ボグド・ハーン政権]]は[[内蒙古|内モンゴル]]にも勢力を伸ばしモンゴルは一時的に統一状態となったが、ロシア帝国が内モンゴルからモンゴル軍を撤退するよう圧力をかけたため、再びモンゴルは南北分裂に陥った。[[1915年]]にロシア帝国と中華民国によって外モンゴルのみの自治を認めるとした取決めがなされた。[[1919年]]の[[ロシア革命]]によってロシア帝国が崩壊すると中華民国は外モンゴルに軍を進めて占領した。[[1920年]]に[[ソビエト連邦]]に抵抗する[[ロマン・ウンゲルン]]が外モンゴルに[[白軍]]を進駐させて[[中華民国国軍|中華民国軍]]を追い出したことによって[[ボグド・ハーン政権]]が復権したが、外国軍である白軍に反感を持つものたちの間に[[共産主義]]が浸透するようになり、モンゴル人共産主義者によって[[モンゴル人民党]]が設立されると、[[1921年]]に[[ソビエト連邦|ソビエト]]の[[衛星国]]として'''[[モンゴル人民共和国]]'''が[[外モンゴル]]に建国された。
 
[[1921年]]に孫文は漢民族を中心として、満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の四民族を全て漢民族に同化させて[[中華民族]]を形成することにより単一民族国家を組織する旨を『三民主義ノ具体的方策』で発表した<ref name=sakai20040224/>。[[1925年]]に孫文は中国民族の総数は4億人であるが外来民族である[[満州民族|満州人]]・[[モンゴル|モンゴル人]]・[[ウイグル人]]・[[チベット民族|チベット人]]は一千万人に過ぎないから中国人の大多数は全て[[漢民族|漢人]]であり、同血統、同言語文字、同宗教、同風俗習慣を持つ完全な単一民族であるとする旨の『三民主義』講演を行った<ref name=sakai20040224/>。[[1929年]]、内モンゴル東部にロシア帝国が敷設した[[東清鉄道|北満鉄道]]の権益をめぐって[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]と[[中華民国国軍|中華民国軍]]が全面衝突する([[中ソ紛争]])。
 
=== 満州国・蒙古連合自治政府 ===
[[1932年]]に[[清|清朝]]皇帝であった[[溥儀]]が[[関東軍]]の協力のもとで'''[[満州国]]'''を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。[[1935年]]3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた[[東清鉄道|北満鉄道]]を満州国に売却する。内モンゴルの中部では[[デムチュクドンロブ]](徳王)や[[ユンデン・ワンチュク]](雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、[[1936年]]には自治を求める[[内モンゴル軍]]([[:ru:Национальная армия Мэнцзяна|ru]])と中華民国軍とが全面衝突した([[綏遠事件]])。[[1939年]]、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて'''[[蒙古連合自治政府]]'''を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古連合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。
 
[[1941年]][[4月13日]]、[[日ソ中立条約]]が[[ソビエト連邦|ソビエト]]と[[大日本帝国|日本]]の間で締結され、[[満州国]](内モンゴル東部)と[[モンゴル人民共和国]](外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された<ref>{{cite web
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPRU/19410413.D1J.html
| title = 日ソ中立条約,声明書
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| date = 1941年4月13日
| accessdate = 2011-01-09
}}<br>「大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」</ref>。ところが、[[1945年]][[2月11日]]に[[ソビエト連邦|ソビエト]]・[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス帝国|大英帝国]]は[[ヤルタ会談]]を開き、満州を中華民国のものとし、[[東清鉄道|北満鉄道]]・[[南満州鉄道]]をソビエト・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみをソビエト・中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した<ref>{{cite web
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450211.T1J.html
| title = ヤルタ協定
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=== 中華人民共和国 ===
[[1945年]]8月以降、中華民国政府と反政府勢力の[[中国共産党]]との間で[[国共内戦]]がきた。国共内戦のさなかである[[1947年]][[5月1日]]、中国共産党員の[[ウランフ]]は内モンゴルに[[内モンゴル自治区|内蒙古自治区]]を設置し、自分はその主席に就任した<ref name=sakurai20080619/>。[[1949年]]に'''[[中華人民共和国]]'''が建国された後もウランフは主席として君臨していたが、[[1966年]][[7月12日]]に[[鄧小平]]がウランフを「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は'''[[内モンゴル人民革命党粛清事件]]'''と呼ばれるモンゴル人への[[大粛清]]を行った。これにより数十万人が粛清された<ref name=sakurai20080619>{{cite web
|url=http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/
|title= 「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」