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'''長慶会盟'''(ちょうけいかいめい)は[[821年]](唐:[[長慶]]元年、吐蕃:[[彝泰]]7年)に中国の[[唐|唐朝]]とチベットの[[吐蕃王朝|吐蕃]]の間に結ばれた[[会盟]]。会盟の内容から'''甥舅和盟'''とも証される。
 
==概要==
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碑文では、[[中国語]]では「大唐」「大蕃」、チベット語では「大中国(rgya chen po)」「大チベット(bod chen po)」等と明記され、両国が対等の立場で[[和平条約]]を締結し、国境について合意した旨が記されている<ref name="tezuka"/>。あるいは{中国語では「和同為一家」、チベット語ではとし今後、}中国語で[[社稷]]を一にせん商議(商議社稷如一)」チベット語では、「国政を一つにしようと談し(chab srid gcIg du mol nas)」、今後については、「蕃漢二國」すなわち「チベットと中国の二国(bod rgya gnyis)」、相互に国境を犯すことなくまた兵を用いないことが強調されている。
 
条文<ref name="tezuka">[http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/mtbgdorin.html 手塚利彰「唐蕃会盟碑」]チベット語・漢語全文所蔵。手塚利彰による[http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/pgdtr2.html 全文訳]もある。2012年2月6日閲覧。2012年3月14日閲覧にもとづき修正。</ref>には、
 
{{Squote|大唐文武孝徳皇帝□大蕃聖神贊普 舅甥二主商議、社稷如一、結立大和盟約、永無淪替、神人倶以證知、世世代代、使其稱讚、是以盟文節目、題之於碑也。}}
{{Squote|チベットの大王・化身せる神ツェンポと中国の大王・中国の君主フワンティ(皇帝)の甥舅二者は、国政を一つにしようと相談し、大講和をなさったそのことは、重大であり如何なる時も変わることなく、全ての神と人が知って証人となって、生々世々かたり伝えるようにするその為に、講和の大要を石碑に書いたのである。}}
 
{{Squote|蕃漢二國、所守現管本界、□□已東、大唐國界、已西盡是大蕃境土、彼此不爲寇敵、不擧兵革、不相侵謀封境、或有猜阻、捉生問事、訖給以衣粮放歸、今社稷叶同如一、爲此大和、然   舅甥相好之義、善□}}
{{Squote|チベット(bod)・中国(rgya)の二国は現在支配している国土と境界を守り、その東方の全ては大中国の国土、西方の全ては正しく大チベットの国土で、これよりは互いに敵として争わず、軍勢を動員せず、国土を
{{Squote|毎須通傳、彼此驛騎、一□□□□□□□蕃漢並於將軍谷交馬、其綏戎柵已東、大唐〓應、清水縣已西、大蕃供應、須合   舅甥親近之禮、使其兩界煙塵不揚、罔聞寇盗之名、復驚恐之患、封人撤備、郷土倶}}
侵犯せず、信頼できぬことがあれば、人を捕らえて取り調べ、釈放して国外に送還すべし。今、国政を同じくし、大講和をこのようになさることにより、甥・舅は喜びの書簡をも往来させるべきであり}}
 
{{Squote|毎須通傳、彼此驛騎、一□□□□□□□蕃漢並於將軍谷交馬、其綏戎柵已東、大唐〓應、清水縣已西、大蕃供應、須合   舅甥親近之禮、使其兩界煙塵不揚、罔聞寇盗之名、復驚恐之患、封人撤備、郷土倶安、如斯樂業之恩垂於萬代稱美之聲、遍於日月所照矣、蕃於蕃國受安、漢亦漢國受樂}}
{{Squote|相互の使者の往来も、古い街道に生じて、昔のしきたり通りに、チベット・中国 二国の間の将軍谷にて馬を乗り換え、ツェシュンチェク(綏戎柵)にて中国と接する下流側は中国が供応する。ツェンシュヒェン(清水県)にてチベットと接する上流側は、チベットが供応して、甥舅の二者は近くて縁戚である状況のごとくに
奉仕と尊敬の流儀があるように案配して、二国の間には戦争は起こらない。突発的な憎悪や対立の名を聞くこともなく、国境を守る者までも疑い、恐れることはなく、それぞれの土地、寝床でのんびりと、安らかに暮らして、幸せの大恩は万代の間にいたり、賛嘆の声は日月が到達したその上にゆきわたって、チベット人はチベット国にて安らかに、中国人は中国にて安らかにするという偉大なる政事を整えてから、}}
 
などと記されている<ref name="tezuka"/><ref>碑文全文については手塚同リンクを参照</ref>。