「関東郡代」の版間の差分

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=== 寛政-文化期の「関東郡代」 ===
1792年(寛政4年)3月、伊奈氏の改易によってその強大な権限は分割された。まず、地方支配は勘定所の管轄とされ、後任の関東代官となった[[大貫光豊]]と[[篠山景義]]は掛御用向の職務を担当したが、同月には[[勘定奉行]]・[[久世広民]]の兼任で関東郡代の職が設置された。関東郡代の下に先に関東代官に任命された2名に加えて3名が追加されて5人体制の関東郡代付代官となり郡代を補佐した。また、伊奈氏から接収した[[日本橋馬喰町|馬喰町]]の代官屋敷を郡代屋敷と改めて掛御用向を扱う鷹野役所(鷹場支配)と関東郡代付貸付方役所(公金貸付)を屋敷内に併設した。屋敷には関東郡代付代官が詰めて地方支配と鷹野役所・関東郡代付貸付方役所の職務を行った。その後、1797年(寛政9年)に久世が転任すると、新しく勘定奉行となった[[中川忠英]]が関東郡代を兼ねた。ところが、[[1806年]]([[文化 (日本元号)|文化]]3年)に中川が転任すると関東郡代は設置されず、同年の火災で郡代屋敷が焼失したこともあってそのまま廃止された。同年、郡代屋敷の跡地に馬喰町御用屋敷が設置され、元の関東郡代付代官は定員を3名に減らした上で馬喰町御用屋敷詰代官として従来と同様の職務を行っている。
 
=== 幕末の「関東郡代」 ===
336,764

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