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'''楊 諒'''(よう りょう、[[575年]] - [[605年]])は、[[中国]]の[[隋]]の文帝[[楊堅]]の五男。漢王に封ぜられたが、乱を起こして庶人に落とされた。[[字]]は'''徳章'''。またの名は'''傑'''。
 
== 経歴 ==
楊堅と[[独孤伽羅]]の間の子として生まれた。[[581年]]、隋が建てられると漢王に封じられた。[[592年]]、[[雍州]][[牧]]となり、上柱国・右衛大将軍の位を加えられた。1年余りして左衛大将軍に転じた。[[597年]]、[[并州]]総管として出鎮し、[[河北]]の52州を麾下に置いた。[[598年]]、[[隋の高句麗]]遠征([[|高句隋戦争遠征]]において行軍元帥となり、兵を率いて遼水まで進んだが、疫病の蔓延のため撤退した。[[599年]]、[[突厥]]の侵入を受けると、楊諒は行軍元帥となったが、出兵することはなかった。
 
楊諒は[[太原]]において精兵をたくわえ、軍備を整えた。[[梁 (南朝)|梁]]の[[王僧弁]]の子の王頍や[[陳 (南朝)|陳]]の旧将の[[蕭摩訶]]といった人物を部下に持った。[[皇太子]]の[[楊勇]]が讒言により廃されると、楊諒は不満をためこみ、密かに謀反を企むようになった。蜀王[[楊秀]]が罪を受けて廃位されると、楊諒の不安はますます高まった。
 
[[604年]]、文帝が死去すると、[[煬帝]]が楊諒を召還しようとしたが、楊諒は赴くことなく、ついに起兵して叛いた。総管司馬の[[皇甫誕]]が諫めたが、楊諒は怒って彼を収監した。王頍は全軍をもって[[関中]]を突くか、もしくは旧[[北斉]]の地に割拠するという2策を示したが、楊諒は選ぶことができず、2策を併用することとなった。総管府兵曹の裴文安が、兵を分遣して要路を守り各地を攻略させ、裴文安を先鋒として楊諒自身は関中に向かうように進言すると、楊諒は裴文安の進言を採用した。自らの任じた[[大将軍]]の余公理には太谷を出て河陽に赴かせ、大将軍の綦良には滏口を出て[[黎陽]]に赴かせた。大将軍の劉建には[[井陘]]を出て河北の地を攻略させ、柱国の喬鍾葵には雁門に出させた。裴文安を柱国に任じて、紇単貴・王聃・茹茹天保・侯莫陳恵らには[[長安]]に向かわせた。
 
蒲津まで100里余りのところにきて、楊諒は考えを変え、紇単貴に命じて[[黄河]]の橋を落として[[蒲州]]を守らせ、裴文安を召還した。裴文安は諫めたが、楊諒は答えず、王聃を蒲州刺史とし、裴文安を[[晋州刺史とし、薛粹を[[絳州]]刺史とし、梁菩薩を[[潞州]]刺史とし、韋道正を[[韓州]]刺史とし、張伯英を[[沢州刺史として守らせた。
 
煬帝は[[楊素]]に騎兵5000をつけて派遣した。楊素は王聃・紇単貴を[[蒲州]]で撃破した。楊素は4万の兵を率いて太原に向かい、趙子開を高壁で撃破した。楊諒は楊素の進軍を蒿沢で阻止しようとしたが、大雨に遭い、王頍の諫めも聞かずに軍を返して、清源に退き守った。楊素が清源に進撃すると、楊諒の率いる軍は隋の官軍と大戦して、死者1万8千人を出した。楊諒は并州に撤退し、楊素が兵を進めて并州を包囲した。楊諒は逼塞して楊素に降伏した。隋の百官は楊諒の罪が死罪に相当すると上奏したが、煬帝は兄弟の情において忍びないとして、楊諒の官爵を剥奪して庶人に落とした。楊諒は幽閉の末に死去した。
 
子に楊顥があり、禁錮を受けていたが、[[宇文化及]]の乱のときに殺害された。
 
== 伝記資料 ==
*『[[隋書]]』巻四十五45 列伝第10
*『[[北史]]』巻七十一71 列伝第五十九59
 
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