「山中恒」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目:
日本の敗戦が決まった際、当時まだ14歳ながら敗戦を[[昭和天皇|天皇]]に詫びるため、真剣に[[自殺|自決]]しようと考え[[辞世]]の句まで練っていたが、友人から「[[連合艦隊司令長官]]や軍司令官でもないお前が、どうして自決など考えるのか」と呆れられ「それもそうだ」と我に帰ったという。この時期に強烈な[[皇民化教育]](恒は「錬成教育」と表現する)を受けたが、それを指導した教員達が日本の敗戦とともに、正反対の教育を平然と始めたことに激しい違和を感じる。この体験が大人や教員に対する不信感を生み、その後の恒の作品にも影響を与えることとなる。
 
中学を卒業後、[[早稲田大学]][[第二文学部]][[演劇]]科に進学、在学中に[[早大童話会]]に所属したことを機に卒業後から児童文学の創作を始める。[[1960年]]の『赤毛のポチ』で[[日本児童文学者協会新人賞|児童文学者協会新人賞]]を受賞し、児童文学作家として本格的にデビュー。この頃、[[古田足日]]・[[鳥越信]]・[[神宮輝夫]]らと児童文学の同人誌「小さい仲間」を刊行していた。
{{Main|早大童話会}}
 
29行目:
 
== 受賞歴 ==
*1956年 - 『赤毛のポチ』で第6回[[日本児童文学者協会新人賞|児童文学者協会新人賞]]
*1960年 - 『サムライの子』で第1回[[講談社児童文学新人賞]]佳作
*1969年 - 『天文子守歌』で第9回[[日本児童文学者協会賞]](辞退)