「李通 (後漢末)」の版間の差分

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武勇に優れ、[[侠気]]で知られていた。朗陵において陳恭と共に兵をあげ、周囲の信望を集めた。近隣の周直という豪族と対立すると、李通は陳恭が決断力を欠くことを知っていたので、周直の殺害を一人で計画し、宴席で周直を殺害した。続いて陳恭を説得して周直の部下を皆殺しにし、その軍勢を手に入れた。陳恭が親族の者に殺されると、李通はその者の首を斬り陳恭の墓に備えた。さらに[[黄巾の乱|黄巾党]]の大物指導者の呉覇を降伏させ、その軍勢を手に入れた。飢饉が勃発すると部下や兵士と食料を分け合って飢えを凌いだ。
 
[[建安 (漢)|建安]]の初め頃、李通は軍勢を引き連れて[[許]]に赴き、皇帝を擁立する曹操の傘下となり、振威[[中郎将]]に任命された。曹操が[[張繍]]を攻撃した時、[[劉表]]が張繍の援軍に来たので負け戦になった。この時、李通が援軍に来たので曹操はまた戦うことができた。李通は先陣を切って戦い、張繍軍を散々に撃破した。その後、曹操は[[汝南]]郡を分割し、陽安郡を設置した。李通は陽安の[[都尉]]となった。
 
李通の妻の伯父が罪を犯し、陽安郡の朗陵の長である[[趙ゲン|趙儼]]がこれを処刑するという事件がおきた。李通の妻子は伯父の助命を嘆願したが、李通は曹操の傘下となった以上、私情よりも公の道義を重視すべきとしこれを容認し、法を厳格に守った趙儼と親交を結んだ。