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==経歴==
旧[[朽木藩]]の[[御典医]]であり、その後[[生野銀山]]鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、[[兵庫県]][[朝来郡]][[生野町]](現・[[朝来市]])に生まれる。兄・宗英が[[大牟田市]]の鉱山業に従事したため、1896明治29(1896年)、13歳の時に一家をあげて[[福岡市]]に転居する。[[福岡市立大名小学校|大名尋常小学校]]を経て、1897翌明治30(1897年)、[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県立尋常中学修猷館]]に進学するが、1899明治32年(1899、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、[[長尾建吉]]の斡旋で[[黒田清輝]]邸の住み込み書生となり、[[白馬会]]洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。
 
1901明治34(1901年)、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現・[[東京芸術大学]])西洋画科選科に入学する。東京美術学校では、[[青木繁]]、[[熊谷守一]]、[[児島虎次郎]]、[[山下新太郎 (洋画家)|山下新太郎]]らと同期であった。1902明治35(1902年)、[[八丈島]]への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち[[伊豆大島]]へ漂着しており、これが後の『南風』制作の契機となった。
 
1904明治37(1904年)、東京美術学校を卒業し、1905明治38(1905年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907明治40(1907年)、第1回[[文部省美術展覧会]](文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞する<ref>[http://inoha.net/archive/02taisho/file/kanten.htm 官展歴代受賞者リスト]</ref>。『南風』は、[[明治浪漫主義]]の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた[[玄洋社]]が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌明治41年(1908年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた[[玄洋社]]が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
 
1909明治42(1909年)、文部省美術留学生として渡欧し、フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、1914[[大正]]3(1914年)、[[インド]]やビルマ(現・[[ミャンマー]])で東洋美術を研究し、1915大正4(1915年)に帰国する。1917大正6(1917年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920大正9(1920年)、染色芸術研究所、1925大正14(1925年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。
 
この頃、1923大正12(1923年)からは、本格的に[[日本画]]の制作に取り組んでいる。1924翌大正13年(1924、[[朝鮮総督府]]の大壁画『羽衣』を制作している。
 
1927昭和2(1927年)、帝国美術院(現・[[日本芸術院]])会員となる。同年、我が国における色彩の標準化の必要性に着目し、[[日本標準色協会]]を創立する。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。1932年その後東京美術学校図案科教授昭和13年(1938年)就任は西宮にあった[[品川清臣]]による[[京都版画院]]という版元から『昭和職業絵尽』シリーズの第1作と、1944年まで務め「洋楽師」と「巡礼」とる。1945年、日本標準色協会を[[日本色彩研究所木版画]]に改組を発表、この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行ており理事長以降、戦後就任する。1951入って昭和31には(1956年)ここで日本初の綜合標準色票続編として色の標準続昭和職業絵尽シリーズ24枚完成す発表した。なお、これらの作品は[[新版画]]に分類されている。
 
昭和7年(1932年)には東京美術学校図案科教授に就任し、昭和19年(1944年)まで務めている。昭和20年(1945年)、日本標準色協会を[[日本色彩研究所]]に改組し、理事長に就任する。昭和26年(1951年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
1953年、[[大映]]映画『[[地獄門]]』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年の[[第27回アカデミー賞]]で[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞する。なお、『地獄門』は、1954年の[[第7回カンヌ国際映画祭]]においても、その色彩の美しさを高く評価され、[[パルム・ドール]](最高賞)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や[[水墨画]]にも活躍し、1958年、[[文化功労者]]に選ばれている。
 
1953昭和28(1953年)、[[大映]]映画『[[地獄門]]』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954昭和29(1954年)の[[第27回アカデミー賞]]で[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞する。なお、『地獄門』は、1954年の[[第7回カンヌ国際映画祭]]においても、その色彩の美しさを高く評価され、[[パルム・ドール]](最高賞)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や[[水墨画]]にも活躍し、1958昭和33(1958年)、[[文化功労者]]に選ばれている。
1967年8月22日、[[嚥下性肺炎]]のため[[東京逓信病院]]で死去。享年84。
 
1967昭和428(1967年)8月22日、[[嚥下性肺炎]]のため[[東京逓信病院]]で死去。享年84。
 
== 代表作品 ==