「エジプト王国」の版間の差分

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|先代1 = エジプト・スルターン国
|先旗1 = Egypt flag 1882.svg
|次代1 = エジプト共和国 (1953年-1958年)
|次旗1 = Flag of Egypt 1952.svg
|国旗画像 = Flag of Egypt 1922.svg
 
<!--- ;領土拡大と王朝の成立 --->
[[1820年]]に後の[[スーダン]]に侵攻し、東部のフンジュ・スルタン国を滅ぼし、ダール・フール・スルタン国から[[コルドファン]]を奪い併合した。さらに[[ギリシャ独立戦争]]の出兵の代償としてオスマン帝国に[[シリア]]の割譲を要求し、[[エジプト・トルコ戦争]]を起こし勝利するものの、列強諸国の介入により、ムハンマド・アリーは自らの子孫による総督の世襲を認めさせる代わりに[[シリア]]の割譲を諦めることになった。しかしながら、世襲制を認められたことにより、[[ムハンマド・アリー朝]]が事実上成立した。
 
=== イギリスの保護国へ ===
[[1869年]]に[[スエズ運河]]が開通するとエジプトの国際的な地位は高まった。しかし、スエズ運河の建設は財政上大きな負担となり、[[1876年]]エジプトの財政は破綻し、[[イギリス]]や[[フランス]]などの列強諸国に管理されることになった。
 
[[1881年]]になると経済的な外国支配を打破すべく[[アフド・ウラービー]]らが民族運動(ウラービー運動、[[ウラービー革命]]ともいう)を展開する。これを危惧した[[イギリス]]は[[1882年]]に軍隊を派遣、これを鎮圧するとエジプトを占領した。
これと平行して、[[スーダン]]において[[マフディー戦争]]が勃発し、スーダンはエジプトからマフディーの支配へ移行した。
 
 
=== エジプト革命 ===
[[1952年]][[1月]]、エジプト各地で駐留イギリス軍が襲撃される事件が多発する。同年[[7月23日]]、[[ムハンマド・ナギーブ]]と[[ガマール・アブドゥ=ナーセル]]率いる[[自由将校団]]が[[クーデター]]を決行。[[7月26日]]、[[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]が退位し、幼い[[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]を残して[[イタリア]]に亡命した。[[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]が新たな国王に即位するものの、[[1953年]][[6月19日]]に革命政権は王政の廃止と共和制移行を宣言し、[[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]は終結した。
 
== 歴代国王 ==
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