「アレクセイ・スタンチンスキー」の版間の差分

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'''アレクセイ・スタンチンスキー'''('''Alexei Vladimirovich Stanchinsky''' 〔</font>''Станчинский, Алексей Владимирович''<font lang=ru>〕 [[1888年]][[9月21日]] - [[1914年]][[10月6日]]?)は[[ロシア]]の[[作曲家]]。
 
=== 生涯 ===
[[地主]]階級に生まれ、専門的に学び始める前から、地元の民俗音楽を蒐集したことがある。[[モスクワ音楽院]]に学び、ニコライ・ジラーイェフと[[セルゲイ・タネーエフ]]に師事。作曲科で最も将来を嘱望される学生であったが、父親の急死を機に[[精神病]]を患い、たびたび精神病院に入院した。意識の清澄なときは、ごく普通に作曲活動に取り組んでいたが、ひとたび[[妄想]]に襲われると、宗教熱が高まり、作品を破り捨てるなどを繰り返した。最終的には医者に見放されている。[[1914年]]の秋に、転地療養を兼ねて[[クリミア]]地方の友人の別荘を訪問中に[[失踪]]し、謎の[[溺死]]を遂げた。[[検視]]の結果、[[自殺]]説と[[事故死]]説の二つの可能性が示唆されたが、確証のないまま前者の可能性が高いといわれてきた。
 
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短い一生の間に、[[メトネル]]や[[アナトーリー・アレクサンドロフ]]らといった学友を感服せしめ、両者はともにスタンチンスキーへの追悼作品を作曲した。スタンチンスキーの存命中に、ロシア帝国の主要な都市でそのピアノ曲が演奏されるようになっていたものの、幾多の政変による紆余曲折を経て、作品が(アレクサンドロフら、かつての旧友の手によって)出版されたときには、作曲者の死から四半世紀が経っていた。また、[[サムイル・フェインベルク]]はスタンチンスキー作品の擁護者であり、[[ソ連]]の国内外で演奏したほか、アレクサンドロフ同様、自身の作曲様式において多少の影響を受けている。[[プロコフィエフ]]は[[1913年]]にスタンチンスキー作品について文章を残しており、プロコフィエフのピアノ曲は、辛辣で小気味良い表現においてスタンチンスキーとの共通点が認められる。[[アルトゥール・ルリエー]]もスタンチンスキー作品を知っていたらしい。このようにスタンチンスキーは、現在でこそ過小評価されているものの、ロシア文化「銀の時代」から[[ロシア・アヴァンギャルド音楽]]に橋渡しをし、帝政末期のロシア楽壇において、[[ジュリアン・スクリャービン]]とともにその夭折が惜しまれた存在であった。
 
=== 主要作品一覧 ===
==== 声楽曲 ====
*ロバート・バーンズの詩による12の歌 (1907-1910)
 
==== 室内楽 ====
*ピアノ三重奏曲 (1907-1910)
*弦楽三重奏曲
 
==== ピアノ曲 ====
*ピアノ・ソナタ変ホ短調(単一楽章、1905年)
*ピアノのための3つのスケッチ(1905-1907)