「ヌエバ・カンシオン」の版間の差分

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荒井白石 (会話 | 投稿記録)
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すでに20世紀初頭の[[メキシコ革命]]において、革命を歌った歌が数多く歌われており、ヌエバ・カンシオンの源流と呼ぶべきものには長い歴史がある。また、1920年代から活躍したアルゼンチンの歌い手[[アタウアルパ・ユパンキ]]も、後のヌエバ・カンシオンに通じる歌を数多く歌っている。しかし、「ヌエバ・カンシオン」という名称は1962年アルゼンチンで歌手の[[メルセデス・ソーサ]]らが結成した「新しい歌の運動」が最初ではないかと思われる。相前後して、キューバやチリでも同様の運動が盛り上がった。特にチリでは、60年代末から1973年まで、[[ビオレータ・パラ]]と[[ビクトル・ハラ]]を中心にして、多くの優れた音楽家が登場している。
 
しかし、チリでは1973年9月の[[チリ・クーデター]]によって[[アウグスト・ピノチェト]]の[[軍事政権]]が成立すると、ヌエバ・カンシオンは大弾圧を受け、ビクトル・ハラは殺害され、他の多くの音楽家も強制収容所に送り込まれたり国外追放されることによって、運動は一時的に窒息状態となった。1976年にはアルゼンチンでもクーデターが起き、軍事政権の人権弾圧によって[[メルセデス・ソーサ]]をはじめとするアルゼンチンのヌエバ・カンシオンの担い手にも国外亡命を余儀なくされる者が出た。70年代末から80年代始めにかけては、ラテンアメリカの大半の国が軍事政権下にあり、キューバとメキシコを除くラテンアメリカ各国のヌエバ・カンシオンは冬の時代を迎える。
 
一方で1979年の[[サンディニスタ革命]]以降、[[ニカラグア]]でメヒア・ゴドイ兄弟など、ヌエバ・カンシオンが隆盛をむかえる。また、1982年アルゼンチン、1990年チリで軍政が倒れ、その前後の時期に再びヌエバ・カンシオン運動が盛り上がって、反軍政活動に大きな役割を果たすこととなった。ただし、アルゼンチンでは6年、チリでは15年続いた軍政の間、国外に亡命していた有名音楽家と、国内で活動していた音楽家のあいだでは、音楽的な傾向に違いが生じていた。70年代まで活動し、その後亡命に追い込まれた音楽家は、伝統的な民族音楽([[フォルクローレ]])を基礎においていたのに対して、軍政下に国内で活動していた音楽家は、むしろ[[ロック (音楽)|ロック]]など欧米起源の音楽を基礎に置くように変わっていった。これは、それぞれの置かれた社会的・音楽的な環境の差に起因しているものと思われる。後者の、国内で活動し続けた音楽家たちの活動をヌエボ・カント(Nuevo canto意味はヌエバ・カンシオンと同じだが単語の並び順を入れ替えている)と呼ぶ場合もある。