「フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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| 母親 = [[ユーディト・フォン・バイエルン]]
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'''フリードリヒ1世'''(Friedrich I. Barbarossa, [[1123年]] - [[1190年]][[6月10日]])は、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1152年]] - 1190年、皇帝戴冠:[[1155年]])。父は[[シュヴァーベン大公]][[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]](独眼公)、母は[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ9世 (バイエルン公)|ハインリヒ9世]]の娘[[ユーディト・フォン・バイエルン|ユーディト]]。歴代神聖ローマ皇帝の中においては有能で、後世では[[英雄]]とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、'''赤髭王'''[['''バルバロッサ]])'''、Barbarossa)と呼ばれた。
 
なお、弟の[[ライン宮中伯]][[コンラート (ライン宮中伯)|コンラート]]([[1135年]] - [[1195年]])の娘のアグネスは[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]](バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる。
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しかし、その後は[[イタリア政策]]に力を注ぎ、そのために政策をめぐって教皇と[[1157年]]から対立、以後フリードリヒ1世は5回にわたるイタリア遠征を行なうこととなり、本国の統治に力を注げなくなる。[[1162年]]には自身に敵対する[[ミラノ]]に侵攻して同地を破壊、このため[[1165年]]に教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]から[[破門]]される。[[1168年]]から[[北イタリア]]の諸都市がフリードリヒ1世のイタリア政策に不満をもって[[ロンバルディア同盟]]を結成すると、フリードリヒ1世はこれに危機感を覚えて[[1174年]]に再びイタリア遠征を実施するが、これには国内でもハインリヒ獅子公をはじめ遠征反対論が多く、[[1176年]]には[[レニャーノの戦い]]で大敗するという有様であった。このため[[1183年]]に、フリードリヒ1世は講和を結ばねばならなくなり、イタリア政策は事実上失敗に終わったのである。ちなみに愛称である'''バルバロッサ'''は赤髭を表すイタリア語であり、この皇帝がイタリアに注力した事を示すものである。
 
その後は国内政策に力を注ぎ、神聖ローマ帝国内の諸邦だけではなく[[ポーランド|ポーランド王国]]、[[ボヘミア|ボヘミア王国]]、[[ハンガリー|ハンガリー王国]]に対しても行われた皇帝権威の主張(ただし、帝国が後援していた[[ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ|ヴワディスワフ2世]]が、ポーランド王国の主権維持を主張する兄弟達と有力貴族、[[グニェズノ|グニェズノ大司教]]によって[[失脚]]させられたためポーランドの[[従属国|属国化]]は失敗に終わった)、[[オーストリア]]の公国化、宿敵ハインリヒ獅子公の追放など、いずれも成功を収めている。また、[[シチリア王国]]と婚姻関係を結んで[[南イタリア]]に僅かに影響力を保持し、息子[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]のシチリア王位戴冠につなげている。
 
[[1189年]]、[[第3回十字軍]]の総司令として出征。翌年に[[イコニウムの戦い]]で[[アイユーブ朝]]軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年6月、[[小アジア]]南東部、[[キリキア]]のサレフ河にて沐浴中に溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒ1世は[[卒中]]のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため後述するような伝説が生まれた。
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[[Category:ブルゴーニュ伯]]
[[Category:ブルグント王]]
[[Category:十字軍の人物]]
[[Category:ホーエンシュタウフェン家]]
[[Category:カトリック教会に破門された人物]]