「フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
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| 母親 = [[ユーディト・フォン・バイエルン]]
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'''フリードリヒ1世'''(Friedrich I.
なお、弟の[[ライン宮中伯]][[コンラート (ライン宮中伯)|コンラート]]([[1135年]] - [[1195年]])の娘のアグネスは[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]](バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる。
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しかし、その後は[[イタリア政策]]に力を注ぎ、そのために政策をめぐって教皇と[[1157年]]から対立、以後フリードリヒ1世は5回にわたるイタリア遠征を行なうこととなり、本国の統治に力を注げなくなる。[[1162年]]には自身に敵対する[[ミラノ]]に侵攻して同地を破壊、このため[[1165年]]に教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]から[[破門]]される。[[1168年]]から[[北イタリア]]の諸都市がフリードリヒ1世のイタリア政策に不満をもって[[ロンバルディア同盟]]を結成すると、フリードリヒ1世はこれに危機感を覚えて[[1174年]]に再びイタリア遠征を実施するが、これには国内でもハインリヒ獅子公をはじめ遠征反対論が多く、[[1176年]]には[[レニャーノの戦い]]で大敗するという有様であった。このため[[1183年]]に、フリードリヒ1世は講和を結ばねばならなくなり、イタリア政策は事実上失敗に終わったのである。ちなみに愛称である'''バルバロッサ'''は赤髭を表すイタリア語であり、この皇帝がイタリアに注力した事を示すものである。
その後は国内政策に力を注ぎ、神聖ローマ帝国内の諸邦だけではなく[[
[[1189年]]、[[第3回十字軍]]の総司令として出征。翌年に[[イコニウムの戦い]]で[[アイユーブ朝]]軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年6月、[[小アジア]]南東部、[[キリキア]]のサレフ河にて沐浴中に溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒ1世は[[卒中]]のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため後述するような伝説が生まれた。
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[[Category:ブルゴーニュ伯]]
[[Category:ブルグント王]]
[[Category:十字軍の人物]]
[[Category:ホーエンシュタウフェン家]]
[[Category:カトリック教会に破門された人物]]
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