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[[Image:Gustave dore crusades dandolo preaching the crusade.jpg|right|thumb|250px|第4回十字軍参加を説くエンリコ・ダンドロ、[[ギュスターヴ・ドレ]]画]]
'''エンリコ・ダンドロ'''('''Enrico Dandolo''', [[1107年]]? - [[1205年]])は、[[ヴェネツィア共和国]]の第四十一41[[元首([[ドージェ]]在任[[1192年]] - 1205年
 
思慮深く、智謀に長けた人物であったという。在任前は[[コンスタンティノポリス]]に滞留していたが、このとき、ヴェネツィア人排斥運動に巻き込まれて、目を潰されて[[視力]]を失ってしまったという(ただし、これをコンスタンティノポリス攻略の動機付けとして考えられた創作で、実際には高齢に伴うものとする説もある)。1192年、第四十40代元首であった[[オリオ・マストロピエノ]]が没した後、思慮深く、智謀に優れた有能な人物であったため、八十80歳を越える高齢にもかかわらず、第四十一代元首として選出されることとなった。
 
[[1202年]]、[[エジプト]]([[アイユーブ朝]])侵攻を目的とする[[第4回十字軍]]が結成されたが、このときの十字軍は軍資金が乏しく、遠征できるような状態では無かった。また、ダンドロもヴェネツィアにとっては主要な交易相手国であるエジプトを攻撃されては困るため、十字軍に資金を援助する代わりに、当時ヴェネツィアと敵対関係にあった[[ザダル|ザラ市]]を攻撃するように要請したのである。これが見事に成功し、第4回十字軍はザラ市に攻撃をかけ、自身も軍を率いて参戦した。
 
[[1203年]]、[[アレクシオス4世アンゲロス]]の要請を受けて、ダンドロや第四次4回十字軍は[[コンスタンティノポリス]]を攻撃し、当時の[[東ローマ帝国|東ローマ]][[皇帝]]であった[[アレクシオス3世アンゲロス]]を追放して、[[1195年]]に皇位を追われた[[イサキオス2世アンゲロス]](アレクシオス4世の父)を復位させた。勿論、その代償として、多大な報奨金を約束として取り付けたのである。
 
しかしイサキオス2世とアレクシオス4世は、[[1204年]]の[[アレクシオス5世ドゥーカス]]の反乱によって殺害されてしまい、この約束は果たされることく終わった。このため、ダンドロは十字軍と協力してコンスタンティノポリスを再度攻略してアレクシオス5世を殺し、東ローマ帝国を滅ぼして[[ラテン帝国]]を成立させたのである。そして、そのラテン帝国の初代皇帝に、ダンドロは当時のフランドル伯であった[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]を推挙し、彼を帝位に即けることに成功したのである。そして自身は、[[イオニア海]]沿岸一帯東ローマ帝国旧領をヴェネツィア領として組み込んで、ヴェネツィア共和国の国際的立場をさらに高めると共に、[[地中海]]の制海権を掌握することに成功したのである
 
エンリコは1205年死去した。正確な生年はわかっていないが、九十90代半ばの高齢であったといわれている。の死後、ヴェネツィアで留守を守っていた息子の[[ラニエリ・ダンドロ|ラニエリ]](ルニエロ)を後継元首に推す声が高まったが、ラニエリは「共和国で親子が続けて元首となった例はない」としてこれを拒否し[[ピエトロ・ヅィアニ]]の元首就任を支持した。ラニエリは後にヴェネツィア軍による[[クレタ島]]攻略に将軍として参加して戦死したが、その子孫は度々たびたびヴェネツィア元首の地位に就任している。
 
{{DEFAULTSORT:たんとろ えんりこ}}
[[Category:ヴェネツィア共和国の元首]]
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[[Category:ヴェネツィア出身の人物]]
[[Category:1107年生]]
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