「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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[[ファイル:Frederick II and eagle.jpg|thumb|220px|right|神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世]]
'''フリードリヒ2世'''(Friedrich II., [[1194年]][[12月26日]] - [[1250年]][[12月13日]])は、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]](在位:[[1215年]][[11月22日]] - 1250年12月13日)、及び[[シチリア王国|シチリア王]](フェデリーコ1世、在位:[[1197年]] - 1250年)。イタリア史関係ではイタリア名により'''フェデリーコ2世'''(Federico II)と呼ばれることが多い(しかしこれによって曾孫のシチリア王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]](在位:1296年 - 1337年)と混同・誤用される事がことも多い)。
 
しばしば[[教皇|ローマ教皇]]と対立し、[[イスラム]]教徒や[[正教会]]に対する宗教的寛容を非難されて[[反キリスト]]([[悪魔]]を意味する)と呼ばれ、2回[[破門]]されている。また、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も込めて「世界の驚異」と呼ばれた。異文化交流によって培われた合理的思考から、近代以降は「王座の最初の近代人」と評価されている。ヨーロッパ最初の[[絶対王政|絶対主義]]君主ともいわれる。
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母コンスタンツェは相続権を有するシチリアにフリードリヒを連れて戻り、皇帝の相続権を放棄した上で帝国から[[シチリア王国]]を切り離し、3歳のフリードリヒをシチリア王にし、自ら[[摂政]]となった。コンスタンツェもその翌年[[1198年]]に没し、フリードリヒは教皇[[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の後見を受けて[[パレルモ]]で成長した。
 
当時の[[シチリア島]]は[[キリスト教]]文化と[[イスラム教|イスラーム教]]文化とが[[ノルマン人]]王朝([[オートヴィル朝|王朝]]もとで融合しており、独特の文化を生み出していた。幼い頃より市井を探検するのが好きだったフリードリヒ2世は、ここでキリスト教徒やイスラーム教徒といったさまざまな価値観を持つ人間に触れ、数ヶ国語を話すことが出来たという。彼の異教徒への寛容と理解の精神はこの頃に育まれたものだと見る事が出来よう。また、イスラーム世界で進んでいた自然科学に興味を持ち、イスラーム文化の1つである[[鷹狩]]に関する著書を記している。これは彼自身による詳細な生物観察のもとに記されているのが特徴である。著書の中でしばしば書かれている「ありのままに見よ」という言葉が、彼の自然科学者としての素質を示している。
 
=== 神聖ローマ皇帝 ===
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[[Category:エルサレム国王]]
[[Category:シュヴァーベン公]]
[[Category:幼君]]
[[Category:十字軍の人物]]
[[Category:ホーエンシュタウフェン家]]
[[Category:カトリック教会に破門された人物]]
[[Category:幼君]]
[[Category:1194年生]]
[[Category:1250年没]]
 
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