「陸軍士官学校事件」の版間の差分

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== 概要 ==
1934年(昭和9年)11月19日、士官学校の中隊長であった[[辻政信]]<ref>三笠宮殿下が昭和9年2月に士官学校に入学されたので、同宮殿下の中隊長として、他にすでに人選の決定していたのを途中から変更して、永田と東条とで辻を士官学校へ連れてきたものである(岩淵辰雄 『軍閥の系譜』 1948年)。参謀本部から士官学校の中隊長は左遷とされており、陸大出のいわゆる天保銭組が士官学校の中隊長になるのは異例。</ref>から、[[憲兵隊]]の塚本大尉に対して、士官学校を中心にして[[5・15事件]]と同じ方法、手段をもって、元老、重臣、警視庁を襲撃する計画があるという密告があった。憲兵隊では取り扱いをめぐって異見があったが、一応内査続行という処置をとった。これに不満であった塚本、辻と[[軍事課]]の[[片倉衷]]が、[[11月20日]]の午前2時に[[橋本虎之助|橋本]][[陸軍次官]]を訪ねて検挙を要請した。その結果、[[永田鉄山]][[軍務局長]]から東京憲兵隊警務課長あてに連絡され、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]で[[クーデター]]計画が発覚したとして、[[皇道派]]の青年将校の[[村中孝次]]大尉・[[磯部浅一]]一等主計ら3人と士官学校生徒5人が逮捕された<ref>松沢哲成、鈴木正節『二・二六と青年将校』</ref>。事件は証拠不十分として不起訴処分となるが、村中・磯部両名は停職、士官学校生徒5名が退学処分となった。また、この事件の責任の名で、当時の陸軍士官学校幹事[[東条英機]]少将は福岡旅団長に転出させられ、辻大尉は水戸連隊付として転出させられた。
 
当時士官学校の中隊長であった辻政信が生徒隊長と連絡し、クーデターを未然に防ぐために5人を逮捕したというのが表向きであったが、青年将校を狙い撃ちにした[[統制派]]による謀略、つまり士官学校の辻と軍務局の片倉と憲兵の塚本らが連携して辻の部下である士官候補生の佐藤、武藤らを利用して、村中、磯部の口からクーデターの陰謀計画なるものを導き出し、それをもって磯部、村中の一派を陥れようとした陰謀という説が根強い<ref>元[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]の[[大谷敬二郎]]は、「わたしは、青年将校弾圧のために、デッチ上げられた架空のクーデター企図だったと信じている」と述べている。大谷敬二郎 『昭和憲兵史』 1979年, みすず書房, pp.122-126 参照。</ref><ref>この事件は軍務局長の永田鉄山と士官学校幹事の東条英機が黒幕として、陸軍中央部、士官学校、憲兵隊、軍法会議と広範な連絡の下に、士官学校の生徒を扇動して、大規模なテロ事件を計画させ、[[岡田内閣]]や政界の重臣らを屠り、その責任を[[教育総監]]の[[真崎甚三郎]]に帰して、皇道派の勢力を陸軍から駆逐して、統制派の軍政を敷こうと計画したが、士官学校の生徒がその陰謀に乗らなかったので、事件を直接画策した片倉衷と辻政信が、自ら描いたテロの陰謀計画をもって、皇道派の青年将校や士官学校の生徒の不穏計画として密告し、彼らを弾圧し、それをもって士官学校の直接監督の地位にある教育総監の責任を問わんとした事件である。[[岩淵辰雄]]『軍閥の系譜』 1948年</ref><ref>[[高橋正衛]]は、岩淵辰雄著の『軍閥の系譜』が、一番真相に近いのではないかと思われる、と述べている(高橋正衛『昭和の軍閥』)</ref>。[[片倉衷]]が辻に加担したとも、また永田鉄山軍務局長の指示によるともいわれるが、片倉は自著で永田の関与を否定している<ref>「よく永田鉄山軍務局長の指示により、私と辻とが謀議して事件をデッチ上げた、といわれるが、私は[[参謀本部]]部員であり、永田軍務局長は[[陸軍省]]の所属である。職務上、私は永田の指示や命令を受ける立場にはなかった。もちろん永田鉄山という人間は、私が[[陸軍大学校]]学生時代に知り、その後も、外から遠く見ていたことは事実であるが。このように、永田が私を使ったという事実は全くないが、私が辻を使ったというのであれば、見方によって、ある程度やむをえない。しかしながら、使ったというよりも、辻が私に報告をし、それを私が処理したといった方が適切であると思う。」</br>--片倉衷 『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』 芙蓉書房, 1981年, p39. </br> 片倉は本書の中で、自分は参謀本部における国内情勢の担当主任者として当然の措置をとったのであり、策略というようなものではなかったと述べている。</ref>。