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'''アブー・ユースフ・ヤアクーブ'''(?(? - [[1286年]])は、[[モロッコ]]を支配した[[マリーン朝]]の第6代君主(在位:[[1259年]] - 1286年)。
{{複数の問題|ソートキー=人1286年没
| 出典の明記 = 2012-3
| 参照方法 = 2012-3
| 独自研究 = 2012-3
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第4代君主・[[アブー・バクル (マリーン朝)|アブー・バクル]]の弟。優秀な才能を持っており、モロッコに勢力を拡大し、[[1269年]]には[[マラケシュ]]を占領して[[ムワッヒド朝]]を完全に滅ぼした。その後、ムワッヒド朝の残党による反乱を抑えながら首都をマラケシュから[[フェズ]]に移してモロッコ支配を完成させた。
'''アブー・ユースフ・ヤアクーブ'''(? - [[1286年]])は、[[モロッコ]]を支配した[[マリーン朝]]の第6代君主(在位:[[1259年]] - 1286年)。
 
モロッコでの支配を確立した後、[[1275年]]に[[ジブラルタル海峡]]を横断して[[イベリア半島]]に軍を進め、{{仮リンク|エシハ|en|Écija}}で[[カスティーリャ王国]]の軍を撃破した。
第4代君主・[[アブー・バクル (マリーン朝)|アブー・バクル]]の弟。優秀な才能を持っており、モロッコに勢力を拡大し、[[1269年]]には[[マラケシュ]]を占領して[[ムワッヒド朝]]を完全に滅ぼした。その後、ムワッヒド朝の残党による反乱を抑えながら首都をマラケシュから[[フェズ]]に移してモロッコ支配を完成させた。
ヤアクーブは自ら軍を率いてイベリア半島のキリスト教国との戦いで勝利を収め、[[1285年]]にカスティーリャ王国にイベリア半島のイスラム教国への不干渉とアラビア語の写本の返還を条件に課して、講和を締結した<ref>フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、138頁</ref>。
 
1286年に死去。を子の[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ]]が継いだ。
この頃、[[レコンキスタ]]により[[イベリア半島]]におけるイスラム勢力は衰退していたが、[[カスティーリャ王国]]では凡庸な王であった[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]の治世で混乱していた。おりしもアルフォンソ10世とその次男・[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ4世]]が王位をめぐって内乱を起こすと、ヤアクーブは前者に協力して内乱に介入し、その援助を大義名分にして[[グラナダ]]などイベリア半島の諸都市や[[ジブラルタル海峡]]の諸港を奪うなどして勢力を拡大した。ただし、王位継承争いでは支持していたアルフォンソ10世が敗れて幽閉されてしまい、イベリア全土の奪還はならなかった。しかしこの時代にマリーン朝の全盛期が訪れたのである。
 
== 脚注 ==
1286年に死去。後を子の[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ]]が継いだ。
{{Reflist}}
 
== 関連参考文献 ==
* I.フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D.T.ニアヌ編, [[同朋舎出版]], 1992年3月)
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*「アフリカの歴史」([[同胞社]])
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{{先代次代|マリーン朝|1259年 - 1286年|[[ウマル (マリーン朝)|ウマル]]|[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ]]}}