「クリスティアン (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)」の版間の差分

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== 生涯 ==
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクとその3番目の妻エリーザベト・フォン・アンハルト=ツェルプストの息子として生まれる。1603年に遠縁のアンスバッハ=クルムバッハ辺境伯[[ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク・フリードリヒ]]が亡くなり、フランケン系[[ホーエンツォレルン家]]の古い家系であるアンスバッハ=[[クルノフ公国|イェーゲルンドルフ]]家が断絶した後、その所領であったブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領を継承した。クリスティアンによって、フランケン系ホーエンツォレルン家の新しい家系であるクルムバッハ=バイロイト家が創設されたのである。
 
クリスティアンが領主権を得ることは既に[[1598年]]のゲラーエア家内法で定められ、その用意がなされていた。クリスティアンの領主権継承と同時に、弟のヨアヒム・エルンストが隣の[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領]]を継承した。[[1604年]]にクリスティアンは、その宮廷を[[クルムバッハ]]から[[バイロイト]]に移転した。クルムバッハの高台にあった旧居城の[[プラッセンブルク城]]は防衛施設として残された。この時点から、ブランデンブルク=クルムバッハという[[領邦]]名も、新たな宮廷所在地にちなんでブランデンブルク=バイロイトと呼ばれるようになった(ただし、公式には最後までブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯のままであった)。
 
[[1606年]]にクリスティアンはフランケン[[帝国クライス]]の長官に選出された。しかし彼は[[プロテスタント同盟]]の創設者の1人であり、[[三十年戦争]]では[[スウェーデン]]軍に味方したため、[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]から[[1635年]]に解任されたが、その後も統治は継続された。
[[image: Urkunde protestantische Union.jpg|thumb|プロテスタント同盟の連判状。右上がクリスティアンの印章]]
彼は、[[プロテスタント同盟]]の創設者の一人であり、[[三十年戦争]]では[[スウェーデン]]軍に味方した。[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]は、[[1635年]]にクリスティアンを解任したが、その後も統治は継続された。
 
次男の[[エルトマン・アウグスト・フォン・ブランデンブルク=バイロイト|エルトマン・アウグスト]]に先立たれたため、死後は孫の[[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]が後を継いだ。
 
== 子供 ==
[[image: Urkunde protestantische Union.jpg|thumb|プロテスタント同盟の連判状。右上がクリスティアンの印章]]
1604年に[[プロシア公領|プロイセン公]][[アルブレヒト・フリードリヒ (プロイセン公)|アルブレヒト・フリードリヒ]]の娘[[マリー・フォン・プロイセン (1579-1649)|マリー]]と結婚し、以下の子をもうけた。
* エリーザベト・エレオノーレ(1606年 - 1606年)
* ゲオルク・フリードリヒ(1608年 - 1608年)
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* アグネス・ゾフィー(1611年 - 1611年)
* マクダレーナ・ジビレ(1612年 - 1687年) - 1638年に[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク2世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク2世]]と結婚
* [[エルトマン・アウグスト・フォン・ブランデンブルク=バイロイト|エルトマン・アウグスト]](1615年 - 1651年) - ブランデンブルク=バイロイト辺境伯位継承者だったが、父に先立って死去。従妹でアンスバッハ辺境伯ヨアヒム・エルンストの娘ゾフィーと結婚、間に1人息子[[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]を儲けた
* [[ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ|ゲオルク・アルブレヒト]](1619年 - 1666年) - ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯(傍系、統治はしていない)