「ジョージ・ケアリー」の版間の差分

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'''クリフトンのケアリー男爵'''である'''ジョージ・レオナード・ケアリー'''('''George Leonard Carey, Baron Carey of Clifton'''; [[1935年]][[11月13日]] - )は、Right ReveredとRight Honourable(名誉)の敬称を持ち、[[1991年]]から[[2002年]]まで第103代[[カンタベリー大主教]]であっを務めた。彼の大主教時代に、[[イギリス国教会]]は女性司祭の叙任を認めた。また、同教会内で同性愛者問題が表面化したのもこの時期である。1998年のランベス会議で、「同性愛を聖書に反する行為として排する」決議をケアリーは支持した。この決議は現在、同性愛問題におけるイギリス国教会内の亀裂をもたらした一要因である。
 
ジョージケアリーは、[[ロンドン]][[イーストエンド]]で生まれた。彼は小学校の能力試験([[Eleven Plus]]イレブン・プラス)に失敗し、15歳でそこを離れるまでバーキンのセカンダリー・モダン・スクール([[Secondary Modern School]])に編入となった。彼はロンドン電気局で事務員として働き、その後、18歳で英国[[イギリス空軍]]の徴兵のため[[イラク]]で軍務についた。
 
が[[キリスト教徒]]になったのは17歳のときであった。それは友人と教会に行ったときである。「私の回心の体験はとても現実的なものでした。まばゆい光はありませんでしたが、単に静かな確信の中で私は何かを見つけました」と後に彼は語っている。
 
兵役期間中に彼は聖職になる決心をし、軍を除籍後、熱心に勉強をして大学入学資格試験で、15ヶ月のうちに6つの可と3つの優を取り、その後ロンドン王立カレッジに入学した。彼は1962年に神学士の学位を得て卒業し、聖職按手(聖職を授与されること)を受けた。
彼はイスリントンの聖マリア教会の副牧師となりオークヒル神学カレッジと[[ノッテンガム]]の聖ヨハネカレッジに勤務した。それから1975年に[[ダーラム]]の聖ニコラス教会で教区牧師となった。二年内に彼の教会の信徒は三倍となった。彼は後にこの経験に基づき「''The Church in the Market Place(Place''(市場の中の教会)」という本を書いた。
 
1982年にブリストルのトリニティ・カレッジの学長に任命、1988年には[[バースとウェールズの主教]]に任命された。そして1991年4月19日、第103代カンタベリー大主教座に着座した。彼が引退を2002年10月31日まで延ばしたのは、国王[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]が即位50周年祝賀式のあとまでとどまるように要請したからだと報じられている。
 
ジョージ・ケアリーは英国国教会内の[[福音主義]]部門のメンバーである。彼は女性の叙階を強く支持し、反対者に対しては異端であると非難さえした。彼は聖職者のメンバーによる同性愛行為に反対したが、その後、同性の愛人がいることが疑われていた二人を司教に按手を座ずけたことを認めた。彼は1998年のランベス会議の議長を務め、全ての同性愛行為を「聖書と相容れない」と徹底的に否定する決議を支持した。しかし、結婚とは呼ばれない、教会の祝福を受けない、教会外における同性愛関係行為に対しては支持を続けている。
 
大主教として、彼は他宗教との交流も活発であった。そして、イスラム教とは2つの宗教間の「より深い対話」を呼びかけ、より良い関係改善のために働い奔走した。しかしその一方、2004年3月25日に、彼はイスラムにおける[[民主主義と核心]]の欠如と現代にそぐわない教義の固持を強い言葉をつかって攻撃く非難した。彼は[[コーランに対する]]の学術的態度研究不足未熟さを批判し、また平和を望むイスラム教穏健派、イスラム過激派によるイスラム政治社会の支配に対して「強く抵抗しなくてはいけない」と語った。彼はた大多数のり、イスラム教徒の大半は過激派を支持していないにもが、かわらず、はといって過激派を非難していないすることはなく、それ強く批判したのである
 
この声明はイスラムに対するあらかさまな攻撃として広く翻訳された。しかしジョージ・ケアリーは後に弁明して「私の説教を読んで問題視する人々は、私が西側のキリスト教についても批判的である事や、同じように、[[パレスチナ問題]]に対する[[イスラエル]]の政策に対しても批判的である事を気づくことでしょう」と語った。
 
ジョージ・ケアリーはまた回顧録を出版した最初のカンタベリー大主教である。本の題名は「''Know the Truth」である。大主教としての経験を語ったこの本''の中は、英国王室についての話や、[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇]][[カミラ・パーカー・ボウルズ]]との個人的な会談について詳細に語っている。その中で彼は2人に結婚を勧めたことを書いているが、この意外な事実は広く批判された。
 
ジョージ・ケアリーはまた回顧録を出版した最初のカンタベリー大主教である。その本の題名は「Know the Truth」である。大主教としての経験を語ったこの本の中には、英国王室についての話や、チャールズ皇子とカミラ・パーカー・ボウルズとの個人的な会談について詳細に語っている。その中で彼は2人に結婚を勧めたことを書いているが、この意外な事実は広く批判された。
{{先代次代|[[カンタベリー大主教の一覧|カンタベリー大主教]]|1991年 - 2002年| [[ロバート・ランシー]] | [[ローワン・ウィリアムズ]] }}
 
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[[en:George Carey]]