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'''クリフトンのケアリー男爵'''である'''ジョージ・レオナード・ケアリー'''('''George Leonard Carey, Baron Carey of Clifton'''; [[1935年]][[11月13日]] - )は、Right ReveredとRight Honourable(
ジョージ・ケアリーは、[[ロンドン]]の[[イーストエンド]]で生まれた。彼は小学校の能力試験(
彼
兵役期間中に彼は聖職者になる決心をして、軍を除籍後、熱心に勉強をして大学入学資格試験で、15ヶ月のうちに6つの可と3つの優を取り、その後ロンドン王立カレッジに入学した。彼は1962年に神学士の学位を得て卒業し、聖職按手(聖職を授与されること)を受けた。
彼はイスリントンの聖マリア教会の副牧師となりオークヒル神学カレッジと[[ノッテンガム]]の聖ヨハネカレッジに勤務した。それから1975年に[[ダーラム]]の聖ニコラス教会で教区牧師となった。二年内に彼の教会の信徒は三倍となった。彼は後にこの経験に基づき「''The Church in the Market
1982年にブリストルのトリニティ・カレッジの学長に任命、1988年には[[バースとウェールズの主教]]に任命された。そして1991年4月19日、第103代カンタベリー大主教座に着座した。彼が引退を2002年10月31日まで延ばしたのは、国王[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]が即位50周年祝賀式のあとまでとどまるように要請したからだと報じられている。
ジョージ・ケアリーは英国国教会内の[[福音主義]]部門のメンバーである。彼は女性の叙階を強く支持し、反対者に対しては異端であると非難さえした。彼は聖職者
大主教として、彼は他宗教との交流も活発であった。
この声明はイスラムに対するあらかさまな攻撃として広く翻訳された。しかしジョージ・ケアリーは後に弁明して、「私の説教を読んで問題視する人々は、私が西側のキリスト教についても批判的である事や、同じように、[[パレスチナ問題]]に対する[[イスラエル]]の政策に対しても批判的である事を気づくことでしょう」と語った。
▲ジョージ・ケアリーはまた回顧録を出版した最初のカンタベリー大主教である。その本の題名は「Know the Truth」である。大主教としての経験を語ったこの本の中には、英国王室についての話や、チャールズ皇子とカミラ・パーカー・ボウルズとの個人的な会談について詳細に語っている。その中で彼は2人に結婚を勧めたことを書いているが、この意外な事実は広く批判された。
{{先代次代|[[カンタベリー大主教の一覧|カンタベリー大主教]]|1991年 - 2002年| [[ロバート・ランシー]] | [[ローワン・ウィリアムズ]] }}
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