「太平洋戦争 (1879年-1884年)」の版間の差分

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| place=旧ボリビア領およびペルー領の海岸から内陸地; 現在の[[タラパカ州]]から[[アントファガスタ州]]
| result=チリの勝利; ボリビア領だったアントファガスタ州と、ペルーの旧タラパカ県、アリカ県など、現在のチリ共和国の第一州、第二州および周辺の領土をチリ共和国が獲得した。
| combatant1={{flagicon|Peru|1825}} [[ペルー|ペルー共和国]]<br />{{flagicon|Bolivia|state}} [[ボリビア|ボリビア共和国]]
| combatant2={{flagicon|Chile}} [[チリ|チリ共和国]]
|commander1={{flagicon|Peru|1825}} [[ペルーの大統領]]<br />
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[[ファイル:Combate naval.jpg|thumb|300px|right|[[イキケの海戦]]]]
[[南アメリカ|南米]]における'''太平洋戦争'''(たいへいようせんそう[[スペイン語]]:'''Guerra del Pacífico''')は、[[1879年]]から[[1884年]]にかけて、南米の[[ボリビア|ボリビア共和国]]・[[ペルー|ペルー共和国]]同盟と[[チリ|チリ共和国]]の間で行われた[[戦争]]である。
 
== 概略 ==
南米大陸・[[太平洋]]岸の資源地帯を巡る戦争であり、係争3カ国の主要鉱石が[[硝石]]であったことから「'''硝石戦争'''(しょうせき せんそう)」とも呼ばれる。「太平洋戦争」とは、スペイン語の“Guerra del Pacífico”の訳にあたり(“Guerra”が「戦争」、“El Pacífico”が「太平洋」の意)、主に[[海戦]]が主体であったことによる。また、硫黄戦争 (Guerra del Salitre) とも呼ばれる。
 
== 背景 ==
[[16世紀]]に[[スペイン]]や[[ポルトガル]]などの[[植民地]]となっていた南米諸国は、[[フランス革命]]などの影響で[[19世紀]]には独立運動が起こり、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]により[[1818年]]には[[チリ]]が、[[1822年]]には[[ペルー]]が独立した。その後サン=マルティンに代わって、北の[[ベネスエラ]]からヌエバ・グラナダ、[[グアヤキル]]、[[キト]]と解放戦争を進めていた[[シモン・ボリーバル]]と、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]によってスペイン軍最後の拠点となっていた[[アルト・ペルー]]は[[1825年]]に解放され、南米の解放戦争が終わった。同年アルト・ペルーの指導者は、解放者[[シモン・ボリーバル]](Simón Bolívar)(Simón Bolívar) にちなんで国名を[[ボリビア]](Bolivia) (Bolivia) と改め、独立した。
 
これらの国々では独立後も主導権争いが起こり、ペルーとボリビアでは[[カウディージョ]](地方の軍事指導者)間の内戦が続き、1836年にはボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]大統領がペルーを征服して、[[ペルー・ボリビア連合]]が成立するなどの動きがあったものの、チリと[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の攻撃により[[1839年]]にこの連合が崩壊すると、以降は再び内戦と[[無政府状態]]が続いていた。
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[[陸軍]]兵力ではボリビア・ペルー側に有利であったが、海岸線の長いチリではイギリスの指導で[[海軍]]整備をしているのに対し、[[ボリビア海軍]]は長く続いた混乱のため未整備で、[[ペルー海軍]]のみで[[チリ海軍]]と戦うこととなった。
 
チリは2隻の艦隊を[[バルパライソ]]からペルー沖へ派遣し、[[タラパカ州]][[イキケ]]を海上封鎖する。5月にはペルー海軍の集結していたカヤオの奇襲を試みるが、カヤオのペルー艦隊(ミゲル・グラウ提督 [[w:en:Miguel Grau|Miguel Grau]])は[[アリカ州]]へ向かう兵員輸送の護衛任務で出向しており、戦闘は回避される。2隻のペルー艦隊は輸送任務を終えるとイキケの封鎖を破るために南下し、[[5月21日]]には湾口で[[イキケの海戦]](Combate (Combate Naval de Iquique)Iquique) が行われる。海戦はペルー側の[[装甲艦]]「[[ワスカル (装甲艦)|ワスカル]]」による[[衝角]]攻撃でチリ艦1隻を撃沈するが、ペルー側も主力艦1隻を座礁で失う結果となる。この結果、[[制海権]]はチリ側に有利となり、ペルー海軍の行動はグラウ提督座上の「ワスカル」による輸送船への砲撃や港湾施設襲撃などの[[ゲリラ戦]]に終始する。
 
10月8日、アントワァガスタ沖で行われた[[アンガモスの海戦]]でグラウ提督らが戦死し、「ワスカル」は拿捕、[[制海権]]は完全にチリ側に握られる。
 
途中でチリ南部の[[マプーチェ人]]が、チリ政府に対して最後の反乱を起こす事件があったがこれは鎮圧された。
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[[1880年]]6月にはペルー領のアリカと[[タクナ]]が[[チリ軍]]に占領され、10月にはチリ軍は南部の[[ピスコ]]へ上陸し、イカを占領した。ペルー軍将兵やインディオは各地で玉砕戦を続けたが、チリ軍はペルー首都[[リマ]]へ進攻。翌[[1881年]]1月には攻撃が開始され、同月には25,000人のチリ軍が市内へと進撃する。
 
ペルー政府は[[アンデス山脈]]に逃げ込み抵抗を続けるが、新[[ペルーの大統領|大統領]]となった[[ミゲル・デ・イグレシアス]](Miguel (Miguel de Iglesias)Iglesias) は降伏した。
 
== 影響 ==
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沿岸部の領土を失ったボリビアは[[内陸国]]となったが、主力は[[海兵隊]]であるものの、現在でも組織として独立した[[ボリビア海軍|海軍]](Fuerza Naval Boliviana: Bolivian Naval Force)を保有しており、主に[[チチカカ湖|ティティカカ湖]]や[[アマゾン川]]や[[大西洋]]に展開している。
 
現在でも、ボリビアはチリとの正式な国交を回復しておらず、天然ガスの輸出用パイプラインをアルゼンチン領土を越えてはるか大西洋側に伸ばしている。一方、チリ - ペルー間の国交は回復しており、同国間に鉄道が設置され、また[[パンアメリカンハイウェイ]]の一部がアリカとタクナを通過している。
一方、チリ-ペルー間の国交は回復しており、同国間に鉄道が設置され、また[[パンアメリカンハイウェイ]]の一部がアリカとタクナを通過している。
 
== 関連項目 ==
* [[アンコン条約]]
* [[バルパライソ条約]]
* [[アリカ (チリ)#アリカ要塞|アリカ要塞]]
 
[[Category:19世紀の戦争|たいへいようせんそうなんへい]]
[[Category{{デフォルトソート:ラテンアメリカの戦争|たいへいようせんそうなんへい]]}}
[[Category:ボリビア19世紀歴史|たいへいようせんそうなんへい戦争]]
[[Category:ラテンアメ歴史|たいへいようせんそうなんへい戦争]]
[[Category:ペルーボリビアの歴史|たいへいようせんそうなんへい]]
[[Category:チリの歴史]]
[[Category:ペルーの歴史]]
 
[[ar:حرب المحيط الهادئ]]