「ヤムナ文化」の版間の差分

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何万もの墓所が見つかっている。縦坑のような穴を掘って墓とし、木や石で作った厚い天板で覆われていたものと見られる。人をかたどった墓石が使われて天板の代用としていたと思われる地方もある。遺体は膝を立てた状態で寝かされており、仰向けのものは「ヤムナ体位」と呼ばれるが、横に寝かされたものもある。頭は東か北東に向けられていることが多く、特にこの文化の草創期ではこの傾向が顕著。遺体は[[黄土]]で覆われているが、黄土で完全に「浸された」状態となっているものもある。そのためこの文化はしばしば「黄土墓文化」とも呼ばれる。墓所には[[クルガン]]が築かれて墓の最初の主が埋葬されるが、そこに他の遺体をさらに埋葬するか、そのクルガンを増築することによって大きなクルガンとし、そこへ新たな遺体を埋葬していく方式を採っている。[[陶器]]、[[石器]]、[[戦斧]]、[[槍]]の穂先、短剣、鹿角製の打棒、[[銅]]製品などの副葬品が見つかっている。[[牛]]、[[羊]]、[[ヤギ]]などの動物の骨も墓所で見つかっている。大規模なクルガンを築く風習から、この社会は古代[[インド]]のものと同じく僧侶、戦士、家畜飼育者の3つの階級に分かれていたと推測されていたが、実際はそこまで明確な階級分化が進んでいたことを示す証拠は見つかっていない。
 
ヤムナ文化の起源は、[[ヴォルガ川]]中流域の[[クヴァリンスク文化]]と、[[ドニエプル川]]中流域の[[スレドニ・ストグ文化]]にあるとみられている。乗馬用の馬と、家族移動用の牛車とから、移動は大変容易であったと推測され、広大な地域にヤムナ文化が広まったのはこのためであると考えられている。ヤムナ文化の様式の墓地は、東方においてはウラル山脈の東麓でも発見されることから、[[アルタイ山脈]]や[[エニセイ川]]の地域に存在した[[アファナシェヴォ文化]]の由来がヤムナ文化やその周辺のヨーロッパ・ステップ地帯の諸文化にある可能性も否定できない。また西方においては、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[セルビア]]、[[ハンガリー]]にまたがる[[ドナウ川]]河口地域の一帯に広がっている。このように広大な範囲にまたがっていること、辺縁が常に大きく変動していること、馬や車といった生活文化様式から、ヤムナ文化こそインド・ヨーロッパ語族の初期のひとつの中核的存在であったという推測は広く認められている。インド・ヨーロッパ語族の起源を扱うとき、前提となっている時代や地理的範囲には人によって大きなばらつきがあるため、インド・ヨーロッパ語族の定義そのものについて議論がある。いちおう[[クルガン仮説]]の扱う時代や地理的範囲を基準とすると、ヤムナ文化は後期[[インド・ヨーロッパ祖語]]の時代の文化であると捉えられるため、この文化はヨーロッパを含むインド・ヨーロッパ語族の多くの文化の起源ではあるものの、インド・ヨーロッパ語族の全ての文化の起源とは言えないことになる。クルガン仮説に否定的な研究者は、ヤムナ文化は[[インド・イラン語派]]の起源であると考えている。ヤムナ文化は西方では[[洞窟横穴墓文化]](英語:Catacomb culture)、東方では[[ポルタフカ文化]](英語:Poltavka culture)と[[スルプナ文化]](英語:Srubna culture)に受け継がれていく。
 
== 参考文献 ==