「エディット・ピアフ」の版間の差分

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ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。エディットという名はドイツ軍に処刑されたイギリス人看護婦[[イーディス・キャヴェル]](''[[:en:Edith Cavell|Edith Cavell]]'')にちなんでいる。(キャベルが処刑されたのはこの年の10月でパリでも大きな話題となっていたのだ)。(ちなみにパリジャンの俗語で雀を意味するピアフが彼女のニックネームになるのは20年後のことである)
 
母親のアンネッテ・ジョヴァンナ・メラール(''Annetta Giovanna Maillard, 1898-1945'')はイタリア系であり、出産当時17歳であった。彼女は[[リヴォルノ]]の出身でリーヌ・マルサ(''Line Marsa'')の芸名のもと[[カフェ]]のシンガーとして働いていた。エディットのミドルネーム「ジョヴァンナ」は母親からのものであった。父親のルイス=アルフォンス・ガション(''Louis-Alphonse Gassion, 1881-1944'')は、過去に劇場で演技をしたこともある大道芸人であった。両親は経済的に貧しく幼いエディットを養う経済的な余裕がなかったため、まもなく母方の祖母<!--(Aïcha Saïd Ben Mohammed)-->の元に短期間預けられしかし彼女はエディットを忌み嫌い育児そのものを拒否したため、ほどなく父親はエディットを、[[ノルマンディー]]で売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後彼は[[1916年]]に[[フランス軍]]に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から[[娼婦]]やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。
 
3歳から7歳にかけて彼女は[[角膜|角膜炎]]で目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦が[[リジューのテレーズ]]へ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。[[1929年]]になるとエディットは大道芸をする父と行動を共にする。その後1930年には父に反発してグラン・オテル・ドゥ・クレルモン(''Grand Hôtel de Clermont'')に一室を取り、父と別れてパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになる(「''Elle fréquentait la Rue Pigalle''」を参照)。彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎でこの世を去った。