「頼三樹三郎」の版間の差分

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[[1853年]]に[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航して一気に政情不安や[[尊皇攘夷]]運動が高まりの兆しを見せ始め、[[1858年]]には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と[[徳川慶喜]](一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、[[大老]]の[[井伊直弼]]から[[梅田雲浜]]・[[梁川星巌]]・[[池内大学]]と並ぶ危険人物の一人と見なされて[[安政の大獄]]で捕らえられて江戸の[[備後福山藩|福山]][[藩邸]]において幽閉される。福山藩主の侍講・[[関藤藤陰|石川和助]]は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸[[小塚原刑場]]で斬首された。
墓は、京都[[円山公園|円山公園(京都府)]]の裏にある[[長楽寺]]にある。
 
==参考文献==