「エティエンヌ・マルセル」の版間の差分

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[[1357年]]にジャン2世が[[ポワティエの戦い]]で捕虜とされると、エティエンヌは租税徴収・軍隊召集・休戦調印などに関して三部会の承認の必要性などの国政改革を骨子とする「大勅令」の作成に中心的役割を果たす。この際に、「大勅令」の尊重を拒否する王太子兼摂政のシャルル(後の[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]])と対立し、王位を狙っていた[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス2世]](エヴルー伯シャルル)がアルルの城から脱獄するとこれと協力して、王太子の追い落としを図った。
 
王太子シャルルがパリを離れると、エティエンヌはパリの防衛を固めるとともに、1358年には[[ジャックリーの乱]]の指導者ギヨーム・カルルと提携した。しかし、この反乱が6月に鎮圧されると、エティエンヌの人気と勢力は瓦解し、[[フランドル]]やさらには敵国であった[[イングランド王国|イングランド]]の支援をも求めようとしていた。最期の時期には、当初の目的意識から外れて、自身の保身のためにフランス王を望むナバラ王カルロス2世の利益を支援したといわれる。7月にカルロス2世を迎え入れる準備をしている時に守備隊長の1人に[[暗殺]]された。マルセルの一党は逮捕され、王太子シャルルがパリに招きいれられた。
 
{{DEFAULTSORT:まるせる えていえんぬ}}
[[Category:フランス史ヴァロワ朝の人物]]
[[Category:暗殺された人物]]
[[Category:パリの歴史]]
[[Category:1315年生]]
[[Category:1358年没]]