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'''ジャン'''({{Lang-fr|'''Jean'''}}、ジャン・ブノワ・ギヨーム・ロベール・アントワーヌ・ルイ・マリー・アドルフ・マルク・ダヴィアーノ、{{Lang-fr|Jean Benoît Guillaume Robert Antoine Louis Marie Adolphe Marc d'Aviano}}、[[1921年]][[1月5日]] - )は、[[ルクセンブルク]]の[[ルクセンブルク大公|大公]](在位:[[1964年]][[11月12日]] - [[2000年]][[10月7日]])。
 
母はルクセンブルク女大公[[シャルロット (ルクセンブルク大公)|シャルロット]]、父は[[パルマ公国|パルマ公]][[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]の子で[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア皇后]][[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の弟[[フェリックス・ド・ブルボン=パルム|フェリックス]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]当主[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]の従弟にあたる。1964年、シャルロットの譲位によって大公位を継承した。2000年、長男の[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]に譲位した
 
== 経歴 ==
1921年、大公家の居城ベルク城でシャルロット大公の長男(第一子)として誕生し、[[ローマ教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]に洗礼を施された。ルクセンブルク国内で初等教育を修了し、イギリスのノースヨークシャー州にあるローマ・カトリック系の[[寄宿学校]]アンプルフォース・カレッジ(Ampleforth College)に進学した。1939年に成人(ルクセンブルクの成人年齢は18歳)すると、正式に[[エルププリンツ|大公世子]]となった。
母はルクセンブルク女大公[[シャルロット (ルクセンブルク大公)|シャルロット]]、父は[[パルマ公国|パルマ公]][[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]の子で[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア皇后]][[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の弟[[フェリックス・ド・ブルボン=パルム|フェリックス]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]当主[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]の従弟にあたる。1964年、シャルロットの譲位によって大公位を継承した。2000年、長男の[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]に譲位した。
 
1940年5月10日、ドイツがルクセンブルクに侵攻すると、大公一家はフランスに亡命、次いでカナダへと亡命した。ジャンは[[ケベック・シティ]]のラヴァル大学に進学し、法学と政治学を学んだ。
 
1942年、イギリス軍の[[近衛兵 (イギリス)|アイリッシュガーズ連隊]]に[[義勇兵]]として志願、イギリス陸軍の主要基地アルダーショットで士官訓練を受けた後、1943年に中尉、1944年に大尉に任官された。1944年6月11日、[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]し、[[カーン]]攻防戦(battle of Caen)や[[ブリュッセル]]解放戦に参戦した。1944年9月10日にはルクセンブルク解放戦に参加し、その後、[[オランダ]]の[[アーネム]]へ移動、ドイツ侵攻にも従軍した。
 
1953年4月9日、ベルギー王女ジョセフィーヌ=シャルロットと結婚し、三男二女を儲けた。
 
1964年、母シャルロットの譲位によって大公位を継承した。1999年に嫡孫にあたる[[ギヨーム・ド・リュクサンブール|ギヨーム大公子]]が成人したことを受けて、2000年10月7日、長男アンリに譲位した。
 
2005年1月、妻ジョセフィーヌ=シャルロット大公妃が肺がんのため崩御。現在はルクセンブルク市郊外にあるフィッシュバッハ城を居城としている。
 
== 子女 ==