「インド・パキスタン分離独立」の版間の差分

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==結果==
パキスタンの独立は[[8月14日]]に、そしてインドの独立は[[8月15日]]に行われた。ジンナーが[[パキスタンの大統領|パキスタンの総督]]となり、また[[ジャワハルラール・ネルー]]が晴れて新生独立インドの[[インドの首相|首相]]となった。しかし、そこに至る道、およびその後の両国が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。
 
[[File:Indian Independence Day at the Red Fort.jpg|thumb|left|独立の日のデリーの[[赤い城|ラール・キラー]]]]
===大都市スラムの発生===
保守的なイギリス人にとって、この事件はかつてのインド総督[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン卿]]が予言したとおりの、[[大英帝国]]の没落の現実化であった。またインドになだれ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民、パキスタンになだれ込んだイスラム教徒難民は、[[デリー]]、[[ボンベイ]]、[[カルカッタ]]、[[カラチ]]、[[ラホール]]、[[ダッカ]]といった両国の[[大都市]]に巨大な[[スラム]]を生み、両国に膨大な[[都市]][[貧困層]]を生じさせて社会の不安定要因となった。
 
===ガンディーの暗殺===
ヒンドゥー、イスラム両教徒のあいだの不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発<ref>イスラム教徒の側からはガンディーの説く「融和」はヒンドゥー教徒優位のものと捉えられたことも事実であり、それが分離独立を後押ししたことも否めない。また、ガンディーのヒンドゥー教徒優位の(善意からではあったが)姿勢に対しては同様の批判が[[カースト]][[差別]]に苦しんでいた[[不可触民]]([[ダリット]])からもあり、[[ビームラーオ・アンベードカル]]([[インド憲法]]の起草者)が主導する[[新仏教運動]]へとつながっていく。</ref>を生むこととなった。特に[[民族義勇団]]などのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌[[1948年]][[1月30日]]、ガンディーは狂信的なヒンドゥー・ナショナリストによって[[デリー]]で[[暗殺]]される結果を招いた。[[非暴力]]を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。
 
[[File:India - Pakistan Refugees.ogv|thumb|インド・パキスタン間の難民(動画)]]
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==関連項目==
*[[インドの歴史]]
*[[ガンジー (映画)]] - 後半のクライマックスで分離独立が描写される
*[[パキスタンの歴史]]
*[[バングラデシュの歴史]]
*[[パーティション (曖昧さ回避)|パーティション]] - この語は南アジアでは分離独立を指す。
*[[ガンジー (映画)]] - 後半のクライマックスで分離独立が描写される
 
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