「ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)」の版間の差分

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=== 治世初期(1863年~1870年) ===
[[ファイル:George of Greece 1864.jpg|thumb|right|1864年]]
17歳の新王は、[[1863年]][[10月30日]]にアテネに到着した。ゲオルギオス1世は前王の過ちを繰り返さないことに決心し、母国語の[[デンマーク語]]に加えてすぐに[[ギリシャ語]]を習得した。また、華美な服装で人前に現れる前王とは対照的に、格式張らない姿でアテネの街中に出歩いていた。ゲオルギオス1世は、前王が慌てて亡命した後に、荒れ果てた状態になっていた宮殿を目の当たりにして、混乱を平定した後に築40年となっていた建物を新しくした。また、デンマークから送られた顧問などからの干渉を受けないことを確かなものにしようとし、叔父への手紙の中でも「自分の政府の方針に対するいかなる干渉も許さない」と言い切った。
 
政治面では、議会で長引いていた憲法審議を終える為の処置を採った。[[1864年]][[10月19日]]に、ゲオルギオス1世は[[コンスタンティノス・カナリス]]首相の承認を受けた要求状を議会に送り、「私は新しい憲法が完成するということを前提に王位を受け入れたのであって、そうでない場合は“私の希望が挫折されることを意味することなので、そういう措置を受け入れる完全な自由”が欲しい」と説明した。この言葉は、ゲオルギオス1世がデンマークに帰国するということなのか、憲法を要求するということなのか意味は明らかではなかったが、いずれの事態も望ましい状況ではなかったため、議会はすぐに協定を結ぶに至った。
 
1864年[[11月28日]]に、ゲオルギオス1世は新しい憲法を守護すること宣誓し、この憲法では近代ヨーロッパにおいて初めて全ての成人男性による直接・秘密・[[普通選挙]]を通じて代表を選出するように規定がなされた。ゲオルギオス1世は、選挙に腐敗があることや大部分が文盲である国民を統治することに困難があることを懸念したが、選ばれた当局者に適法した権限を任せることによって[[立憲君主制]]を成立させた1864年から[[1910年]]までの間に、21回の総選挙と、70回もの内閣の交代があった。
 
国際的にゲオルギオス1世は、義兄であるイギリスの[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード]]王太子と緊密な関係を維持し、当時[[オスマン帝国]]の支配下にある一方で、ギリシャ系住民が人口の大多数を占めていた[[クレタ島]]問題を解決する為に、彼の援助を取り付けようとした。オソン1世の統治以来、ギリシャ人の地を一つの国で結び付けたいというギリシャの願望は、イギリスとフランスにとって頭痛の種であり、両国は[[クリミア戦争]]の間に、ギリシャの[[民族統一主義]]を思い止まらせる為にピレウス港を占領し、オソン1世を戸惑わせたりした。[[1866年]]にクレタ島で反乱が起きると、プリンス・オブ・ウェールズは[[エドワード・ヘンリー・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スタンリー]][[外務英連邦大臣]]の援助を受けて、ギリシャに代わってクレタ島に介入しようと試みた。しかし、列強はクレタ島には介入せず、オスマン帝国は反乱を鎮圧した。