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'''花井 吉成'''(はない よしなり、生年不詳 - [[慶長]]18年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1613年]][[9月25日]]))は、[[江戸時代]]初期の武将。[[松平忠輝]]の[[家老]]。通称三九郎、後に松平遠江守の名を許される。室は[[徳川家康]]の側室[[茶阿局]]の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。子に娘([[村上忠勝]]室)、娘([[大久保長安]]六男の大久保権六郎(右京長清)室)、玄芳院(服部仲保後妻)[[花井義雄]](主水正、よしたけ)、[[花井義賢]](のちに松下に改姓)、[[花井義房]]。
 
[[三河国]]生まれで、[[秦氏]]の系統である[[松下氏]]の一族。若くして[[徳川家康]]の近習として仕え、慶長8年([[1608年]])、家康の命により家康の六男の待城城主松平忠輝の家臣となる。慶長15年に忠輝が加増され、[[越後国]][[高田藩]]主となったが、松代を含む北信四郡もそのまま領したので、待城を松城と改め、吉成が城代を務めた。吉成父子は[[北国街道]]の改修や、[[裾花川]]の瀬直しおよび[[犀川 (長野県)|犀川]]より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。
 
慶長18年、[[大久保長安事件]]の件に連座して。松代城にて自害。法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。墓所は長野市松代町松代の西念寺。吉成の没後、子の義雄が松代城代となる。