「開拓使」の版間の差分

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*開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、[[測量]]・[[道路]]などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
*黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。
*結局、明治8年([[1875年]])5月に[[樺太・千島交換条約]]によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太の[[樺太アイヌ]]民族を北海道に強制移住させた。
*札幌本庁を統括していた[[松本十郎_(開拓使大判官)|松本十郎]]は、強制[[樺太アイヌ]]を移住させる事に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした[[薩摩国|薩摩]][[藩閥政治|藩閥]]が開拓使を支配した。
*十年計画の満期が近くなった明治14年([[1881年]])に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商[[五代友厚]]だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の[[疑獄]]事件である[[開拓使官有物払下げ事件]]である。
*開拓使は翌明治15年([[1882年]])に廃止され、北海道は[[三県一局時代|札幌県・函館県・根室県]]に分けられた。